田島正樹『文学部という冒険』の『わたしを離さないで』評を承けて

 田島正樹先生の『文学部という冒険』、掉尾を飾る大童澄瞳『映像研には手を出すな!』批評は見事だが、その伏線としてのカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』読解にはやや首をひねる。いやたしかにこの作品のいかがわしさの核心部分に触れてはいるが、肝心なところで外しているように思われる。しかし着眼はたしかに圧倒的に優れている。

 『わたしを離さないで』のいかがわしさの一端はSFのフェイクであるところ、SF的意匠を単なる寓話として用いていて、真剣なSFではないところに由来する。あれを真剣なSFとして読むなら、主人公たちが置かれた不条理な状況への告発が作品の主題ということになり、物語の動力はその構造への主人公たちの反逆か、あるいは悲劇的な挫折かということになる。しかしそんな風にはあの作品は読めない。
 トリヴィアルなところでしか現実世界と変わらない世界を舞台とする普通のリアリズム小説とは異なり、SFはシステマティックにかつ有意味に現実世界とは異なる世界を舞台とするが、実はSFもまたある種のリアリティラインを持っており、そこから逸脱する作品は駄作として責められる。そう考えると、20世紀末以降の世界のSFの相場観においては『わたしを離さないで』は完全にリアリティラインを逸脱しており、SFとしては読めない。もちろんリアリズム小説としても読めない。我々の多くは既にクローン人間というものが実現すればそれは一卵性双生児と本質的に変わるものではなく、もし仮に我々普通の人間に魂があるというなら、クローン人間にも魂があるということを当然のことと受け入れる世界で生きている。そしてそのような現実世界において書かれるSFが、有意義なSFであるためには、その架空世界と現実世界とのズレを、(それがいかにおぞましかろうとも)十分に合理的な根拠を持ったものとして描かれねばならない。しかし『わたしを離さないで』においてはそのような努力の跡は見られない。読者はただその世界設定を「そういうものだ」と受け入れることだけを求められている。つまり『わたしを離さないで』は単なる寓話であり、(ジャンル)ファンタジーではあっても(真剣な)SFではない。SFは普通に快く読めるように現実世界とその中での我々の運命についての寓話として読めるように書かれるが、同時にまた現実世界に潜在する未知の可能性の実現としての異世界についての探究としても読まれることを目指している。『わたしを離さないで』はわざと現実世界とは異質な世界設定を利用して、現実世界の中でのわたしたちの運命についての寓話をわかりやすく展開することしか目指していない。だからこそあの作品のなかで主人公たちはどこにもたどり着けないし、彼らの芸術は何ものをも生み出さず、現実を変えることはない。
 ではもし彼らの芸術が、彼らにも魂があることの証明として世界に突きつけられたならば? もちろんそのようなストーリーは考えられるが、それは我々の時代においてはもはやSFにはならず、ファンタジーにしかならない。彼らの芸術が外の普通の人間たちの心を打ち、悔い改めるなどという結末には、彼らの芸術の発する光が、外の普通の人間たちには実は魂がなかったことを明らかにし、生ける屍人に過ぎなかった普通の人間たちがすべて腐れ落ちる、という結末と同程度のリアリティしかない。芸術にはそんな力はない。あったとしたらむしろ邪悪な魔術である。
 むしろあれがSFとして書かれた上で、そのなかで彼らの芸術の位置づけをきちんと行うとしたらどうなるか? それはトマス・ピンチョンが読んだジョージ・オーウェル1984年』や、マーガレット・アトウッド侍女の物語』のやり方だ。すなわち、テキストを後世に残された悪夢の時代の記録として読む、という。ピンチョンは『1984年』がスミスの手記と新語法についての付録の二部構成であることに注目し、作品を後世の歴史家が校訂したテキストとして読むことを新版への解説において主張する。アトウッドの場合はもっとストレートに、本体の手記とそれに対する後世の歴史家の解説として作品が構成されており、やや興ざめでさえある。『わたしを離さないで』の場合にも同様の解釈をすれば、あれをSFとして読むこともできなくはない。その時主人公たちの芸術は、彼らが人間であることの紛れもない証明として読者たちの前に開示され、と同時に彼らを魂なきものとして扱った時代総体の狂気が浮かび上がる、という仕掛けになる。もうひとつ、あれを宗教説話にしてしまうことももちろん可能だ。すなわち、主人公たちは芸術によって魂を救われ、死後天に迎え入れられ、他方彼らの臓器によって長らえた者たちを含めた外の人間たち全ては地獄に落ちた、と。
 もちろん『わたしを離さないで』はそのどれでもなく、中途半端な寓話に終わっており、芸術の意味という主題をまともに追究していないという田島の批評は正鵠を射ている。しかしながら私の考えでは、現実世界についてのぬるい寓話の域を超えて真面目なSFないしファンタジーとしてこの作品を作り変えるなら、上のような可能性しか残されていない、と私は考える。そこのところで田島と私とでは世界観が異なっている。クローンたる主人公たちの芸術作品を鑑賞することによって悔い改めることができるくらいなら、あの世界の人間たちは最初から彼らクローンたちをあんな風には扱ってはいない。そして実際クローンたちの芸術は何ら世界を変えないのである。つまりそこで責められるべきは誰か? 天才性を発揮できなかった非力なクローンたちかと言えば、もちろんそんなことはない。責められるべきは、地獄に落ちるべきは彼らを臓器源として搾取する人々の方だ。人は自分に魂があるなどと主張する責任は負わされていない。逆である。芸術作品など創ろうと創るまいと、彼らに魂があることは明らかであるのに、それを認めない世界の方が狂って邪悪なのである。その狂気と邪悪に対して疚しい良心の痛みを感じた者たちが、エクスキューズとして芸術をクローンたちに教えたとしても、それによって救われるのはクローンたちの魂ではあっても彼らのではない。彼らの罪はそんなことでは帳消しにはならない。
 ところが『わたしを離さないで』のたちの悪いところは、疚しい良心に苛まれてクローンたちに芸術を与えた者たちを含めて、外の普通の人間たちが事実上キャラクター、登場人物ではなく舞台装置にすぎない、ということだ。つまり彼らには救済はおろか罪を背負う資格さえ実はない。読者の感情移入の対象は、もっぱら無力なクローンたちに限定されている。しかし本当にあの作品で芸術の力についての物語を紡ごうとするならば、主人公たちに芸術を与えた管理者たちはそのような書割にとどまっていてはならないはずなのだ。しかしそうなったとき、元の作品のあの不穏さを隠し持った静謐さは破綻し、代わってP・K・ディック「まだ人間じゃない」の救いのない地獄がむき出しになるだろう。