トークイベント「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」感想
既に読まれた方には言うまでもないことだが、伊藤計劃の第二長編『ハーモニー』は第一長編『虐殺器官』の後日談として読むことができる。後者の末尾で暗示されていた大災厄を踏まえて、前者における超福祉管理社会が到来しているのである。
『虐殺器官』の結末において、主人公クラヴィス・シェパード大尉は人々を相互殺戮へと駆り立てる「虐殺の文法」の英語ヴァージョンをアメリカ合衆国において解き放ち、結果アメリカは阿鼻叫喚の無政府状態、内戦へと突入してしまう――と暗示されている。ここで当然ながら「「虐殺の文法」のヴィークルが英語であったならば、その影響範囲はアメリカを超えて英語圏全般、どころかほぼグローバルとなり統制不能となるはずだ」という推測が成り立つ。この可能性についてクラヴィス自身がどの程度自覚していたかどうかは、小説の記述自体からはわからない。主人公の一人称による叙述を真正直に信じるならば、彼はそのことに気付いていなかったことになるが、おそらくはそうではない。作者も暗示していた(http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070710/p1)通り、ここでのクラヴィスは端的に「信頼できない語り手」なのである。
クラヴィスの解き放った「大災禍(ザ・メイルストロム)」を経た人類社会は、「生府」というあからさまに「生権力」「生政治」を念頭に置いた名称の機関の下に、最も過激なベンサム的功利主義もかくやと思わせる、「生命主義」という名の「よき全体主義」を実現する。そこでの、健康と人間関係の親密さを至上の価値とする社会に生きづらさを感じ、自殺という形でそれに反抗しようとした少女、御冷ミァハが物語の中心である。主人公霧慧トァンはミァハとともに自殺しようとするが失敗、ミァハのみが死ぬ。しかし、長じて「生府」体制の官僚となったトァンは、突如始まった大量自殺事件を追う中で、実は生存していたミァハと再開する。このミァハが自殺事件の黒幕の一人であったのだが、それは「生府」の優しいファシズム体制への犯行というよりはその向うへと突き抜け、体制をリードするトップエリートたちのヴィジョンとも共振して「生命主義」を最終的に完成させる作業であった。すなわち、人間的苦悩の根源に他ならぬ実存、つまりは「意識」を根こそぎ消滅させる――全人類をデイヴィッド・チャーマーズ風に言えば「哲学的ゾンビ」にしてしまうことこそ、その目的であった。
「信頼できない語り手」クラヴィスの一人称で進められる『虐殺器官』に対して、『ハーモニー』は一見したところ普通の三人称で進められるが、巻の最後においてそこまでの記述全体が、計画が完了して全人類から意識が消滅したのちの時代に作られた記録であることが明らかとなる。意識を持たず、当然に本来は感情を持たないその時代の読者は、作中に埋められたいくつかのタグを読み込むことによって、感情の擬似体験ができる――そうした設定上の遊びがそこには仕込まれている。
晩年のJ・G・バラードの作品群、『殺す』『スーパーカンヌ』などはまさに「生府」の先触れともいうべきソフトでジェントルな管理社会を描いたものであるが、山形浩生も指摘するとおり、全盛期の作品に比べた時、やや凡庸な印象を受けてしまう。70年代のテクノロジー三部作『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ・ライズ』が、テクノロジーの産物、人工物の集積が人間にとって自らの製作物、意図的な操作・支配の対象というより、所与の環境、第二の自然とでもいうべきものへと変じていくということ、そしてその下で人間はただ単に疎外されるのではなく、そこにそれなりに適応していく――人間性=人間的自然それ自体もまた、変容していってしまうのではないかということを、論じるのではなく具体的なイメージとして例示していた。それに対して晩期バラードの諸作は、むしろ単純素朴に、テクノロジー支配による人間疎外と、それへの絶望的反抗を描いてしまっているように見える。
テクノロジー三部作において自動車やハイウェイ、巨大マンションといった人工物は、製作者たる人間の思惑を超えて勝手な論理で動く不気味なものとして立ち現れる。凡庸な作家ならばまさにそれが人間の側に及ぼす効果を「人間疎外」と描くわけだが、バラードの場合は、フェティシズムを中心に、人間がそうした不気味なものに対しても案外と慣れてしまい、そこから新たな快楽をくみ出しさえしてしまう可能性を予感している。つまりバラードにとって人間性は可変的なのである。疎外論者によればそれは「人間性の疎外、喪失」であるが、バラードにとっては単なる変容にすぎず、それ自体は良くも悪くもない。
しかしながら晩期作品群におけるゲーテッド・コミュニティーやリゾートは、荒々しい第二の自然としての暴走的テクノロジーというよりは、完璧に意図的に調律された芸術作品である。70年代のそれがどちらかといえばハードウェア優位のものであったのに対して、晩年ではどちらかというと情報システムや管理手法などのソフトウェア優位のものがクローズアップされていたことも関係があるのかもしれない。
バラードは自動車や巨大ビルに対しては、人間を超えたその自律性を妄想でき、それへのフェティシズムを直観できたのだろう。しかし何とも意外なことだが、官僚制や情報システムについては、彼はそうした妄想力を十分に発揮できなかったのではないだろうか。それゆえに彼は、自動車事故に欲情する変態や、コンクリート・ジャングルの野生人を描くことはできても、山形が期待したように「モニタが壁面を埋め尽くす警備室の性欲、インターネットのルータに宿り花開く熱帯のジャングル、検閲用スクリプトが呼び覚ます殺人衝動(以下略))」を描くことができず、結果そうしたシステムの裂け目を「人間的自然の変容」のとばぐちとしては描けず、ただ単に「システムと人間的自然との齟齬」としてしか描けなかったのではないか。
それでは、伊藤はバラードをある程度ではあれ超えることができていたのか。
『ハーモニー』の、一見したところの反抗者が実は体制の成就者であったという結末は、ある意味で晩年のバラードの煮え切らなさを軽やかに突破していて好ましい、とも言える。しかしその反面、意識が消滅して「それからみんな幸福に暮らしました」という結末は何とも言えず安易であるともいえる。意識が消滅した(しかし、それって具体的にはどういう事態なんだ?)あとは何も起こらない、という想定は果たして正しいのだろうか?
ジョン・スコルジーの『老人と宇宙』に始まる一連の作品は、『宇宙の戦士』『終わりなき戦い』『エンダーのゲーム』の衣鉢を継ぐミリタリーSF(作中での未来の兵士たちの教育訓練課程で読まれる戦争文学の中に、『戦争と平和』といった定番の古典の他にこれらのSF作品が含まれているのが何ともおかしい)であるが、21世紀SFにふさわしく「意識」問題が中心テーマの一つになっている。そこに登場する宇宙の最有力種族コンスー族は、種族を挙げて一つのオブセッション――宗教的信念にとらわれている。彼らは意識を知的生命にとっての宿痾、そこから脱却すべき宿業と考え、自分たち自身がその業から脱却すべく修行に余念がないばかりか、ほかの見込みのある知的生命に対してもその修行をさせようとする(べく戦争を仕掛ける)。このコンスー族が創造した知的生命がオービン族であり、彼らの最大の特徴は意識を持たないことである。しかしオービン族は「親の心子知らず」、自分たちが意識を持たないことを嘆き、意識を渇望する。
「意識を持たないことを嘆き、意識を渇望する」というのはいったいどのような状態なのか(そもそも概念的に矛盾した成り立たない状態なのではないか)はさておき、「意識さえなくなれば、良くも悪くもすべて終わり」とは限らないとすれば、大変面白いことである。
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