フーコーの二つのリベラリズムと憲法学

 労使関係論サーベイをおっぽって読んでいたAghion & Howitt(500ページだけどAcemogluを見たあとでは短くてやさしく見える! ふしぎ!)を更におっぽって無謀にも石川健治駒村圭吾=亘理格「論点講座 憲法の解釈」(『法学教室』連載)を延々自分でコピーして(そろそろカネより時間を惜しむ年頃なんですがなんせ不景気で)読んでいる(しかし「憲法訴訟」とか「三段階審査」とかかじる前にやることがいくらでもあるだろうがと自分でも思う。いやでもいいですよこの連載。行政法学の勉強にもなるし)と石川大先生が最終座談会で超不穏な発言を。

 私がそういう議論をする下敷きとして念頭に置いているのは、ミシェル・フーコーの1979年辺りの講義録です。その頃の講義において、フーコーは、どういうわけか西ドイツのオルドー・リベラリズムと格闘しており、ミイラ取りがミイラになってしまったみたいな感じになってしまっているのです。フーコーの自由論として読んだ場合、彼が最終的にどこに行こうとしているのか、何ともいい難い部分がありますが、そこで主題化されているのは、直接にはgouvernementariteとしてのオルドー・リベラリズムなんです。統治性と訳されていますが、統治の形のことですね。営業の自由という公序が、人権の問題ではなくて、統治の問題という視角から、見られている。そうすると、公序の選択に関与するのは上か下かという問題が出てきて、いわば国家が権力的に公序を強制するのか、それとも市民社会、経済社会の側が、自分たちの秩序に合わせて国家を構成するのかという問題が生じてきます。
(『法学教室』2009年3月号38頁。)

「ミイラ取りがミイラに」……いやおっしゃるとおりです。しかしだからといって否定するわけにも……いずれにせよフーコー新自由主義に対して決して否定的でも敵対的でもないということには注意せねばならない。


 というわけで駒村先生がフーコー環境管理型権力」論について論じた「警察と市民」(『公法研究』第69号、2007年)を読んでいると更に遠藤比呂通先生のこれまた超不穏な発言が引用されている;

 こういった問題の九割九分は実はどうすべきかというより、私たちがこの社会をどれだけ正確に認識する義務を持っているか、そしてその義務を尽くしているかだと思います。特に権限・権力をもっている人々が、そのシステムによって一番被害を受ける人たちの視点で社会を認識する努力を怠らなければ、九十九%の問題は解決するのではないかと思っています。
(「座談会・『監視社会』に向かう日本と法」『法律時報』第75巻第12号、2003年、26頁。上記駒村論文122頁より孫引き。)


 それいっちゃいますか……。

 フーコーは79年講義でいわば「二つのリベラリズム」について論じている。それは言うなれば本来のリベラリズム、つまりアダム・スミス以降(フーコー重農主義以降と考えている)の近代的政治経済学が導いた、暫定的に言えば「経済的自由主義」であり、市場経済市民社会という対象を前に自己抑制する統治理性である。
 いまひとつはそこから遡及的に見出された、法によって統治権力を抑制しようという社会契約論的な発想、暫定的に言えば「政治的自由主義」である。憲法学はその本性からしてどうしてもこちらにコミットせざるをえないようにできているわけだが、その限界を何とかしたい、という問題意識が一部の憲法学者のあいだから出てきているわけか。
ルーマン『制度としての基本権』はいわば後者を前者化しようという無理押しだったのかもしれない。
「基本権保護義務」論をいかに無害化するか、という問題もこれに絡むか?)
 そう考えると駒村先生のこの発言がまた不穏である;

 もちろん、もうひとつ別の道もある。「新しい権力状況に古い自由で立ち向かう」のではなく、発想を逆転して、古い自由を保守し、新しい権力の方を旧態に戻す試みがありうる。操作型権力の利用をやめさせ、近代以前に権力を引き戻すのである。市民と協働する「親しまれる警察像」を拒絶し、むしろ警察には「排除する権力」として自己を顕示し、堂々と振舞ってもらうのである。
(駒村前掲、119-120頁。)

制度としての基本権

制度としての基本権