「労使関係論」とは何だったのか(18)

(承前)
 ここで「知識」と「教養」の区別について一言しておきたい。知識というのはたとえば昨今の認識論では「正当化された真なる信念」などと定義されたりもする。つまりただ単に「真」であるだけではなく、「真」である理由がなければならない。この正当化の文脈は知識を取得するプロセス、たとえば認識や推論のシステムにかかわっている。すなわち、問題の信念が、外界の経験の上で得られた情報に基いていることや、他の信念との整合性が保たれていることが要求される。
 つまり「知識」とは具体的で個別的でローカルなものだが、それが単なる「真なる信念」にとどまらずに「正当化」されているためには、それがシステマティックな認識システムを通じて得られたものでなければならない。つまり「正当化」が可能であるためには前提が必要で、それゆえに「基礎付け」が延々と問題となってきたわけである。
 私見では「教養」とはこの「基礎付け」とかかわっている。ただしそれこそかつての論理実証主義が体現したような素朴な「基礎付け主義」をもはや採りえないとするならば、つまり「経験に先立って経験の健全さを保証してくれる確かな方法論」なるものがありえない(「前提」は明示化できない暗黙のものだからこそ「前提」なのだ。明示化できれば「知識」になってしまう)とするならば、「教養」とは結局いくぶんかは「賭け」でありバランス感覚でしかありえない。近年の認識論で言う「認識論的徳」とはつまりそういうことなのだろう。
 かつてたとえば『資本論』に、いま少しローカルには『日本資本主義分析』にその模範が求められていた「大理論(グランド・セオリー)」とは汎用・万能理論ではなく「トータル・ヴィジョン」であり、更に言えば「教養」なのである。となればそれは実は明示化は不可能で、『資本論』『分析』でさえ、「大理論」そのものではない。『資本論』『分析』といった偉大な古典は、「教養」のオーラを他の著作に比べ濃厚に背負っているに過ぎない。


 極端に簡略化するならば、大河内一男の「社会政策の生産力説・経済理論」に対する戦後世代、隅谷三喜男、氏原正治郎らによる批判、「社会政策から労働経済学へ」の転換の論理と、それに対する中西洋による反批判、「資本主義国家論」への止揚の論理は以下のとおりである。
 社会政策の中心的課題を労働者問題とし、資本制経済の観点からすれば労働者問題とは労働力問題である、とする大河内の立場からは、労働力商品の担い手が労働者であるにもかかわらず、労働者が主体として描かれないという憾みがある。労働者を主体として資本制経済を描くには、別の立場、たとえばマルクスの経済学プランに従うならば『資本論』とは別立ての著作としての『賃労働論』に、あるいは非マルクス経済学の系譜においては労働者を労働市場における取引の一方の主体として扱うアングロ・サクソン流の「労働経済学」にヒントを求めるべきである――大まかに言えばこのような問題意識が隅谷や氏原を導いていたと言えよう。そして実際、初発においてはマルクス経済学の理論枠組や思考法に則っていた彼らは、新古典派経済学アメリ制度派経済学フレームワークに少しずつ近づいていく。すなわち彼らは、マクロ的なシステム、体制の側からではなく、労働者や企業などのミクロ的な行動主体の側から積み上げていくアプローチをとるようになっていくのである。
 これに対する大河内の立場はマルクス経済学的かつ後期ドイツ歴史学派(講壇社会主義)的に、あくまでもマクロ的なシステム、主体を制約する制度的枠組や環境条件に注目するものでありつづけた。彼によれば労働力の担い手が労働者という生身の人間であるにもかかわらず、その存在様態と行動の可能性があくまでも資本制の大枠によって制約されていることこそが問題なのである。
 このような大河内の考え方を、中西は基本的に肯定する。中西によれば、労働者を主体とする「労働経済学」という枠組を可能とする現実、歴史的コンテキストは、あくまでもそれに先行した社会政策によってこそ可能となったものなのである。そして我々が「労働問題」と観念する領域を過不足なく考察するためには、「労働経済学」のパースペクティブでは不十分で、少なくとも「社会政策論」までは射程を広げなければならない、ということだ。


 しかしながら中西は、大河内を丸ごと肯定したりはしない。中西によれば、ことに戦時体制下の「頽落形態」において顕著であり、戦後にもその「頽落」が引き継がれてしまった大河内理論の欠点とはその理論体系における市場――労働市場カテゴリーの不在であり、そこではたしかに主体としての労働者は不在で、客体的な資源としての労働力があるのみで、その資源を運用する主体としての資本――社会的総資本としての国家と個別資本としての経営があるのみだった。しかし中西によれば盛期大河内の「社会政策の経済理論」は主体としての労働者をしっかりと登場させており、労働力商品の価格をめぐって資本家と労働者の階級闘争を正面から描いていた。そこには経済的かつ政治的なフィールドとしての労働市場が描かれていた。しかし戦時期以降大河内のフレームワークからはこの意味での「労働市場」は消え、それは戦後にも戻ってはこなかった。
 他方中西によれば戦後の大河内社会政策論を批判し労働経済学への移行を試みた論者たちは、労働者を労働力商品の売り手、労働市場における一方の主体として正しく描きながらも、労働市場階級闘争の場としては描かなくなり、その射程は実は盛期大河内に比べても後退したものとなってしまったのである。