ネオマルクス主義世界経済論についての思い出(2)

 「世界システム論」という大風呂敷が「社会学においても「国際関係」「世界」を論じていいのだ!」という「コロンブスの卵」的な問題意識の転換をもたらしたことの意義とか、更には歴史学とか国際政治学とかに対して与えた効用(「国家」という単位の相対化)はもちろん認めたうえで、それでも経済学に与えたインパクトについていえば「よくわからない」とならざるを得ない(たとえばすでに紹介したジェフリー・ウィリアムソンらを中心とする、世界経済についての包括的な計量経済史のプロジェクトを進めているグループの業績においては、ウォーラーステイン学派の業績はほとんど参照されていない)のはどうしてかと言えば「世界資本主義を「異質なサブシステムからなる複合体」として捉えるという方法的視座のメリットが意外と小さかった」からではなかろうか。


 第一に、ウォーラーステイン学派によれば「大体「広義の(長い)16世紀」からヨーロッパ中心の資本主義世界経済という単一世界システムが形成されてくるわけだが、その基準は植民地帝国の形成を通じて、実際にヒト、モノ、カネの流れが規則的に始まる」ということであろう。しかしたとえばオーソドックスな経済学の立場に立つ計量史家のウィリアムソンによれば「世界各地での価格変動が規則的に連動するようになる、つまり統合された「世界市場」なるものができてくるのはせいぜいのところ19世紀だ」ということになる。つまりそこには、少なくとも「市場経済」と呼べるようなシステム的統合が世界レベルで成立していない、というわけである。
 もちろんこれはどちらが正しい、という問題というよりは単なる視角の違い、問題設定の違いというべきかもしれない。しかしながらここで資本主義を市場経済システム(の一種)と考えるならば、仮に16世紀におけるヨーロッパ中心の「世界システム」の形成を認めるとしても、それはいまだ「資本主義世界経済」ではない――せいぜいのところ「ヨーロッパ公法植民帝国システム」でしかない、ということになろう。市場経済はいまだ比較的ローカルなものが地球上に散在するにとどまっており、本格的なグローバル世界経済の到来は産業革命以降、ということになる。実際世界システム論においても、「世界経済」とは異質のシステム概念としての「帝国」、「朝貢システム」といったアイディアがあるわけだが、初期近代、近世はまさに「帝国」から「世界経済」への過渡期だったということになるかもしれない。


 第二に、「異質性」の問題について考えてみよう。そもそも上記のように考えるならば、「異質なものの複合体」はいまだ経済学の視角からすれば、いまだ同一のシステム的法則性に従っていないもの同士の偶然的な、ないしは別の論理、別の力による共存でしかない。となれば、それらをまとめて一つの「システム」と呼んで、固有のレベルとして分析するありがたみがない。すなおに異質な別個のもの同士の相互作用として考えた方が頭が混乱しなくてよい。
 より具体的に、ここでどういうものが「異質」と考えられているかといえば、それは資本主義の外、市場経済の外側で、別のメカニズムでもって動いている経済のことである。つまりは(「現存した社会主義」を含めた)「帝国」とか、そして何より伝統社会とかサブシステンス・エコノミーのことだ。乱暴にいえば「搾取すべき外部なしには資本主義は存続しえない」という、ローザ・ルクセンブルグ的なテーゼが想定している「外部」のことだ。
 もちろんここで「搾取」という言い方をしたのは乱暴なのであって、どちらかというとここでの外部とは「バッファ」ととらえた方がよい。ある時はそれは、ウィリアム・アーサー・ルイス的な二重経済論が想定しているような「無制限労働供給」の源として、資本主義をサプライサイドから支え、またある時は「余剰の吐け口」として、「資本輸出」先として、先進資本主義諸国の国内市場の狭隘さ、有効需要不足を補う市場としても捉えられている。しかしながら、安価な労働供給減がなくなったからと言って資本主義が破綻するわけではもちろんないし、有効需要不足の解消策としての海外市場侵略ははっきり言えば悪手であり、マクロ政策による国内における需要喚起の方が有意義である。つまりここでいう程度の「外部」とは、資本主義市場経済にとって「あればあったで便利だが、無しでも済ませられる」程度のものでしかないだろう。「資本主義が自らの存続のために、あえて非資本主義的な経済を残存させている」などという理屈は変だ。


 ついでにhttp://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20051107#p1
     http://cruel.org/econthought/schools/worldsystem.html