現代の存在論のしんどさ

 今日紀伊国屋

相対性理論 (岩波文庫)

相対性理論 (岩波文庫)

を買ったのはなぜかというと持ってきた
四次元主義の哲学―持続と時間の存在論 (現代哲学への招待―Great Works)

四次元主義の哲学―持続と時間の存在論 (現代哲学への招待―Great Works)

を読んでいて、時間・時間内存在の存在論に関する現在主義(存在するのは現在と現在内存在のみ、endurance派)・対・永久主義(四次元時空すべてとその中のすべての存在が存在する、perdurance派)の対立構図の中で現在主義を批判する際に「現在主義は特殊相対論に引っかかる」という指摘があったので物理は高校の物理?で終わっちゃってるけどにわか勉強をするため。
 よく知られているとおり、少しだけ偏微分方程式が出てくるのを除けば、アインシュタイン原論文の数学はもちろんきわめて初等的なものです。しかし何が引っ掛かるかというと数学というよりもっとアレなレベルで――座標系の位置関係の直観的理解のレベルで引っかかってるんだよ!
 昔っから、どっちが前でどっちが後ろとか、上下左右とか、空間的直観力のなさには自信がある。


 で、何でそういう現代形而上学の勉強などしとるかといえば、アガンベン以来「剥き出しの生」「単なる生」とかいったフレーズが流行っていて、それに対して「単なる生などというものはない」という批判がたとえば市野川君や加藤君によってなされていて、これはかつての小泉さんの議論なんかともつながるものだろうとはおもうんだけど、しかしほんとにそれでいいのか? という疑問が少しわいたので。
 少なくとも加藤君や小泉さんについては、そこではある種の存在論的前提、「「存在する」と言えるのは個体的存在者だけである」というかなり強い前提、性質を含めた普遍者についての唯名論的立場が前提とされていた。「生命」って普遍者であり、個体的存在者ではなくてその性質でしかないわけ。百歩譲って性質を含めた普遍者もまたある種の存在者だということが認められたとしても、倫理的価値が帰属するのは個体的存在者(の一部?)だけだ、というわけでしょう。これは確かに我々の直観と整合的だけど、本当にそれだけでいいのか、とか考えてしまいましてね――まあこの辺の議論は、直観的には、私ごときの手には負えないだけではなく、おそらくは百年単位でしか進まない議論なんではないかと――。


 でも本当はこの辺の議論をきちんとするにはもっと本格的な「人格の存在論」を作らないといけないのではないですかね。積読なんだけど、サイダーの論敵らしいメリックスの単著

Objects and Persons

Objects and Persons

なども大層面白そうな気がするんですが。

追記

 つうか「ライプニッツ恐るべし!」ってことですね内井先生!

 STRANDの1ドルコーナーでLeibnits Selectionsを拾ったらクラーク宛書簡(対ニュートン代理戦争)が全部入ってたよ! で読むひまはないよ! 『弁神論』要約だけ眺めてるよ!