「公共政策論」講義メモ

 市民社会は個人、あるいは、自然人のことをしか「個人」と呼びたくなければ個体の集合体ではあるが、それ自体は個体ではない。ではこの市民社会を構成する「個体」とは何であろうか? 実はそれは、ただ一人の自然人個人をしか含まない場合においても、通常は「個人」とは言い難いところがある。市民社会を構成する個体ないし個人とは、(一般的には複数の)個人とその保有する――「持つ」――資源からなるシステムである。「資源」はここでは通常は、世界に存在する人以外のもの、のことであるが、「通常」ではない(しかし歴史的には決して「以上」にでもない)ケースにおいては、人――自然人もまた「資源」でありうる。つまりは奴隷である。自然人の――これをどう定義するかは問題だが――「部分」もまた「人以外のもの」と扱われうる場合にはその限りにおいて「資源」でありうる。
 このようなものはいくつかのカテゴリーに分けられる。先述の「個体」と「種類物」という分け方もまたこうしたカテゴリーわけの一種であるが、先の意味での「個体」には人もまた含まれるので、人以外の「もの」に焦点を当てよう。
 まず法律用語にならって言えば、ものは「動産」と「不動産」とに分けられる。前者には「個体」も「種類物」もあるが、後者は、人間が「持つ」対象としては「個体」であることに注意しよう。人間の「保有」の対象となる以前の土地や海洋は、「個体」というよりは「種類物」だが、「保有」の対象となる際には土地一般や海洋一般から切り離され、囲い込まれて「個体」とされる。
 そしてもう一つ、ものは「生物」と「無生物」とに分けられる。「生物」にも「無生物」にも「個体」扱いのものと「種類物」扱いのものがあることに注意しなければならない。大きな建物や特殊な機械はしばしば「個体」であり、家畜や栽培植物、あるいは微生物などは「種類物」として扱われる。
 ここで「持つ」といい「保有する」と言って「所有する」とは言わなかったことには理由がある。ここでは普通の意味での「所有」ではないが「保有する」「持つ」と言いうるような振る舞い、そのような形でのもの、資源との関係についても真面目に考慮に入れ、そのことをもって「所有」概念をもう少し厳密に使いたいからである。これは何も法律学本位主義をとろうという趣旨ではない。しかしそれなりにデリケートで、しかも現実に即した法律実務の用語法を無視して議論することは、日常生活においてであればともかく、それなりに学術的な議論を展開しようというのであれば――本気で解釈法学をやろうというわけでは全然なくとも――、決してほめられたことではないだろう。
 市民社会の構成員としての個体、個人の保有する――あえてこう言ってしまおう――「財産」は、何も厳密な意味での「所有」の対象であるとは限らない。誰か他人の所有物であるが、ある条件下でそれを利用する権利を「持つ」――それにしても「権利を持つ」とは微妙な言葉づかいである。「権利」は「もの」であろうか?――。典型的には、それを借りている場合である。歴史的に、社会的な制度設定、法体系によって違いはあるが、われわれの市民法体系においては、土地を借りている借地人は、借りた土地を「占有」している、とされる。これはただ単に「権利」のレベルではない、すなわち規範レベルではない「事実」レベルだけのことではない。われわれの市民法を含めた少なからぬ法の下で、一定の条件の下で「占有権」が認められている。


 「所有権」の定義は一筋縄ではいかず、実際法体系によってその厳密な規定は当然に多様なのであるが、大まかに言えばそれは「あるものに対する排他的かつ絶対的な支配権、かつそこから得られる残余的利益の最終的請求権」といったところだろう。
 標準的――というより理想的な場合には、人は自分が所有するものを好きなように利用することができるし、もちろん一切利用せずに死蔵することもできる。消耗品であれば使って破壊し、なくしてしまうことも当然にできるし、使わないままに自然に朽ちさせてしまうこともできる。だが、耐久物である場合にも、破壊して無に帰してしまうことができる。更にそれだけではなく、そのものから得られる最終的な残余的利益を独占することができる。
 「残余的利益」とは具体的にはこういうことだ――企業のオーナー経営者を考えよう。たとえ会社の資本金が100%そのオーナー経営者のものであったとしても、普通は企業の収益すべてがオーナーに帰属するわけではない。国家、具体的には税金のことは無視しよう。雇人への報酬が収益から差し引かれる。また経営が自己資本100%ではなされず、銀行などからの借り入れをも利用していた場合、利払いや返済などもそこから差し引かれねばならない。しかしそうした控除は通常、あらかじめの契約によって定められたものである。つまり「費用」として計上される。そして収入から費用を差し引いた純利益は、すべてオーナー経営者に帰する。
 現実の世界では、まったく無制限に理想的な「所有権」など存在しない。土地がまさに典型的であり、普通土地利用においては都市計画、地域計画の規制ががんじがらめに絡み付いていて、「排他的かつ絶対的な支配権・処分権」などほとんど考えられない。しかしながら「残余請求権」については、もちろん租税の問題などは残るにせよ、比較的原型をとどめている。また反対に借地者の権利についても、中には部分的には所有権と比較しうるくらいに強い、土地に対する利用や関与の権利を含んでいる場合がある。しかしながら借地者には「残余請求権」は通常はない。
 理想的な「所有権」など通常は存在しないにもかかわらず、われわれが何かを「持つ」という場合に普通に「所有」という言葉を用い、のみならず「持つ」こと、「保有」のパラダイム、典型として「所有権」を扱うことには理由があり、その最大のものはこの「残余請求権」であろう。「所有権」以外の権利、たとえば借地権は、土地それ自体を所有しているはずはないが「土地を利用する権利」を所有している、と無理矢理に観念するわけである。もちろん借地権は、法律用語でいえば「人に対する請求権」としての「債権」であり、ものに対する直接的な権利、「物権」(所有権や占有権はその典型)ではなく、その所有者に対する権利である。しかしたとえば、債務者の名は特定されているが、債権者の名は特定されていない無記名債権――市場で商品として流通する債券や株式の類はみなこれである――は我々の市民法では物権として、ある程度具体的な人と人との関係から切り離されて浮遊しうる「もの」として扱われている。
 もう一つの理由は、典型的な所有権の特徴としての「排他性」である。所有権が排他的であるということ、すなわち、ある個人Aの所有するものは、普通は、同時に他の任意の個人の所有の対象であることはない。このことによって、世界は各個人を焦点としてきれいに分割される。すなわち、世界中のあらゆるものは、誰かの所有の対象であるか、誰のものでもないか、のどちらかにきれいに直和分割される。


 もちろん実際には所有権でさえ世界をきれいに直和分割できるわけではないのみならず、ものと人をめぐっては他にも多種多様な権利が錯綜している。おそらくは発生史的には「占有」が「所有」に先行しており、貸借その他のものの複雑な利用関係を処理するべく、より複雑な(!)「所有」という観念、制度があとから発生したのであり、われわれの素朴な「所有」観念はそうしたプロセスを前提としつつも、その来歴の記憶を定かに保っていないために、見かけは単純であるにもかかわらず、よく掘り下げようとすると途端にぼやけて混迷するようになっている。以上のような限界を念頭に起きつつ、次善の策として、「所有」を――その周辺にここまで全く触れなかった「担保物権」や借地権その他の債権を伴い、その基層に「占有」を伴うものであることに注意を払いながら――市民社会を構成する個体――というより、そろそろ「人」と呼んだ方がよいだろう――の権利の典型として考えることとしよう。またここで「人」に対する、もう一つの定義、特徴づけを与えることができる。すなわち、「人」とは権利――所有権、物権のみならず債権も含めて――の主体である。これに対してものはもっぱら権利――もちろん基本的に物権――の客体であって、それ自体は権利の主体とはならない。


 市民社会とは「所有権」その他関連する権利の主体としての人の集まりであり、それゆえに人の「所有権」その他物権の及ぶ限りでのものをもそこにはらんでいる。市民社会とは「人の集まり」ではなく、「人とものとの集まり」である、といったほうがよいかもしれない。
 もちろん典型的な「もの」、通常の「もの」は誰かの所有物、財産なのであり、そうではないものはみんなのものか、あるいは誰のものでもないものである。前者はともかく、後者は市民社会、どころかおよそ人間の社会の外にあるものである――ということにとりあえずしておこう。人間の社会の外にあるものたちは、主としてルソー的な意味での自然状態を構成している。市民社会においてものは通常誰かの財産なのだから、直接に市民社会の部分、構成要素なのではなく、それを所有する(ないしはその他の仕方で支配したり利用したりする)誰か特定の人の部分として、間接的に社会の部分となる、という考え方もできる。
 すなわちここでの「人」、市民社会のメンバーとしての人、言い換えるならば「市民」とは生身の自然人ではない。もちろんそれは必ずしも自然人個人ではなく、その集まりとしての家であったり、団体であったりするかもしれない。しかしたった一人の自然人からなる個人ないし市民であっても、裸の自然人ではない。そこには財産が存在する。所有物が、仮に厳格な意味での所有物がなくとも、占有があるはずだ。そうでなければ人はこの世に生きていくことはできない。特定の場所を占めて住まうことができなければ、そして食べるものがなければ、自然人は生きていけない。「市民」とは財産を(所有しているとは限らないが)持ち、それによって生存していける人ないしその小規模な集まりであって、それ自体一個の個体であるようなもののことである。


 さて、上記のような市民社会の姿を理論的にわかりやすく描き出しているのは、必ずしも「市民社会」という表現は用いていないかもしれないが、17世紀前後の、いわゆる「近代自然法学」の思想家たち、あるいは社会契約論者たちである。「自然状態」論者と言い換えてもよい。もっとも明快なのはロックである。周知のとおりロックは有名な『統治二論』なかんずくその後編において、自然状態とそこからの(今日的意味での)国家の生成について論じている。ロックの言う自然状態は、後のルソーとは全く異なり、まさにここでいう意味での「市民社会」そのものである。財産所有者たち、少なくとも財産を所有しうる者たちの集まりである。いやロックの場合、自然人の身体(ここには知性、精神的能力も含まれる)それ自体が「財産」と観念されるため、基本的に普通の人間はみな、潜在的に、可能的にではなく現実に、財産所有者たちである。ロックの考えでは、政治権力なくとも人々は理性のはたらきによって(もちろん神の導きもあって)自然法――具体的には所有権を中軸とする財産権の秩序――を知ることができ、また政治権力なしにそれを実現することができるが、そこには不確実性が大きいため、より確実な法の実現を目指す人々は、自発的な結社として統治権力体、主権国家を形成するのである。ここで国家は市民社会という海に浮かぶ島のようなものだ。
 国家が本来的には自発的結社であるわけだから、ロックの考えるところでは人間は本来自由であり、他人の強制に服する必要はない。服するとしたら、それを自ら選んでそうするのであって、不本意な本来の意味での服従、従属ではない。そうした自由が空虚な形式的権利に終わらず、実体でありうるために、財産、ものの所有が必要となる。この考え方はもちろん、その源流をたどれば少なくともアリストテレス、ポリス時代のギリシアにまでさかのぼれる。
 ただロックの場合、所有権の根拠は労働、身体を動かしてのものの獲得と製作であるため、万人が自由人である――「ありうる」「あるべき」ではなく現に自由である、ということになる。それに対してアリストテレスや古代人の考え方に従うならば、そこで人間は、奴隷を一方の極とする――何しろもの、所有権、物権の客体である――、財産を持たない不自由人と、財産の裏付けによる自由人とに分かれてしまう。古代人だけではない、近世、近代においてもそうした思考は生き延びる。たとえばスピノザを見よ。18、19世紀においても財産を持たない賃金労働者、奉公人、更にもちろん女性は「不完全な自由人」扱いを受けている。こうした人々は家の代表、家長としての「財産」ではないにしてもその支配と保護のもとにある。
 そしてよく見ればロックの場合にも、それほど明確かつラディカルに、万人が完全無欠の自由人として扱われているわけではない。人の身体、労働が最も基底的な財産として位置づけられながら、結局ロックにおいても典型的な財産は身体、労働ではなく土地である。奉公人の労働の産物は本人ではなく主人の所有に帰する。そして何より、土地所有権を守るべく国家設立の主体に参加するのは、土地所有者だけである。身体・労働という財産は少なくともその直接のターゲットではない。


「公共性」論

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完訳 統治二論 (岩波文庫)

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