梶ピエール先生の立腹、あるいは「ケツを舐める」ことについて

 梶谷氏が某誌某特集での「親中」左翼知識人の書き物を「日本人による中途半端な体制擁護の論考」と大変に痛烈な一言で切って捨てておられる。某誌を見ているわけではないが、氏のこれまでのたとえば孫歌ならびにそのシンパへの酷評ぶりなどから見ても非常に納得のいくご発言ではある。この感覚は塩川伸明氏が和田春樹氏を批判した際のそれと通ずるものであることは言うまでもない。
 それにしてもぼくも世の中には「大人の事情」というものがありうること、現状では例えば「中国をたたいていればそれでよいというものではない」ということ自体はもちろん否定しない。たとえば大屋雄裕氏が「おまえは中共のケツをなめているとは言われてもやむを得ない」とおっしゃる時に、その言葉じりを取る気にはなれない。
 しかし、ケツの舐め方にもいろいろあるだろう。仮に大屋氏も某誌もどちらも「中共のケツをなめているとは言われてもやむを得ない」としても、そこには有意味な違いがあるはずだ。
 第一には「ケツを舐めている」自覚(とその明示)の有無、というポイントが挙げられる。塩川氏の和田氏に対する批判は非常に繊細なものである。まずは第一のレベルでは、塩川氏は和田氏の「現実主義」への「転向」を「時に欺瞞を弄することにもなりかねない現実政治へのかかわりそれ自体、知識人としていかがなものか」という風に批判している(「和田の「民主派」評価には、ロマン・ロランウェッブ夫妻スターリン賛美を思い起こさせるところがある。われわれがスターリン主義の歴史的経験から学ぶ最大の教訓は、このような態度をとってはならないということではないのだろうか」)。しかし氏の論はそこにとどまらない。仮に和田氏がそれを承知の上で、それでもあえて現実政治にコミットするのであれば、「立場の変更を明示すべきだ」という、第二段階の批判が提起されている。
 第二に、しかし自覚(かつそれを明示)していればいいというわけではもちろんなかろう。それではただの居直りにもなりかねない。問題は「中共のケツをなめる」ことのコストとベネフィットである。何のために中共のケツをなめるのか、それによって何を達成するのか、である。
 今この時期にあえて(大屋氏自身はおそらく別の問題意識で動いているだろうが)「中共のケツを舐める」ことに意味があるとすれば、わかりやすく言えば「叩くことによって硬化させるより、多少ご機嫌をとってでも軟化させる方がよい」可能性に賭ける、ということであろう。もちろんこの考え方に対しては、今現在の中国バッシングの風潮からすれば、「それは第二次大戦前の対独宥和論と同じじゃない?」という批判が飛ぶだろう。その批判はもちろんありうる。ただこの「太陽政策(書いてて不吉だが)」にも一定の理があることを否定する人は少なかろう。しかしそれにしても何のための「太陽政策」か、である。
 はっきりさせておかねばならないのは、それはもちろん中共の体制の利益のためであり、中国一般民衆の利益のためでもあるが、当然に回りまわってチベット民衆のためでもある。そうでなければ「太陽政策」にはもちろん意味がない。もちろん中国叩きを今している人の多くも、根本的には「それがチベット民衆のためになる」と信じているからこそそうしているはずだ。中共を叩いて己の正しさを確認するナルシシズムは、もちろんお呼びでない。
 梶氏やリンク先の読みが正しいとすれば、某誌寄稿者たちは「現在の中国叩きの基調はこの腐ったナルシシズムにこそあり、わずかながらの善意も、無知とオリエンタリズムのなせる独善である」と片づけているということになろう。さてそれでよいのか? 
 むしろその反対に、中国叩きに反論する「新左派」――そしてとりわけシンパの方こそ、ある種のナルシシズムに陥っていないだろうか? すなわち、中共の擁護を、欧米や日本を(自己)批判するための手段としてしまってはいないだろうか? それはもちろん、塩川氏がかつての「スターリニズム擁護の史的教訓」として痛切に強調するあの悲劇に重なりはすまいか。いやもし本当に「売国奴呼ばわりされようとこれこそが中国民衆とチベット民衆のためになるのだ」との確信と戦略あってのことであれば平身低頭するしかないのだが、さて。


 やはり我々一般人は「悪いものは悪い」とはっきり言うべきなのであり、悪い奴のケツを舐めるときには、それ相応の覚悟と戦略なしにやってはいけない。とりわけ、自分のため(含む「自己批判」のため!)に悪い奴のケツを舐めてはならない。


 そういえばベネズエラはどうなっているのだろうか。情報がいまいち入ってこないような気がする。