ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』(続)
本書がどうして「デイヴィドソン自身によるデイヴィドソン入門書」なのかというと、普通「デイヴィドソン哲学」というと行為論と意味論との二系列からなるものとして理解されているのだが、本書収録の諸論文においては、その両者をより大きな「心の哲学」体系へと統合した「統一理論」が素描されているからである。
その際キーになっているのは「欲求」の概念であり、信念に対する欲求の先行性、根底性が主張されている。その理論構築に際しては、、彼自身もキャリアの初期において共同研究に参加していた意思決定理論のアイディア、ことに期待効用理論が重要な意味を持っている。非常に大雑把に言えば、フォン=ノイマン・モルゲンシュテルン効用関数にしたがっているという意味で合理的な主体が、将来の不確実な事象に対して割り当てる主観確率を、まさに命題的態度としての「信念」と見なすわけである。
もちろん現実の人間を含めた行為主体が、文字通りにNM効用関数を体現しているわけではないが、デイヴィドソンによれば、そもそも我々は他者を理解しようとするならば、その他者を基本的には合理的な存在であると想定せざるをえない(寛容の原理)。ではその行為主体の合理性とはどのようなものか、と考えたとき、欲求に導かれる行為者としては、ある種の効用関数の最適化を図る主体として想定されるし、また認識者としては、世界について整合的な信念体系を構成する主体として想定される。デイヴィドソンは合理的主体のこの両側面を、期待効用原理と主観的確率論のアナロジーによって統合してはどうか、と示唆している。
期待効用理論によれば、不確実な世界についての合理的な信念体系(どのようなことが起こりえるかについての整合的な予想体系)と、その信念体系によって捉えられた、世界内で起こりうる様々な状況についての合理的(一貫して整合的)な選好体系(あの状況とこの状況、どっちがましか云々)を備えた主体に対しては、NM効用関数を帰属させることができる。
このようなNM効用関数を具体的に計算する場合、まずはその主体の選好体系と、選好の対象の確率分布が前提とされる。そうすると素人目には、起こりうる出来事についての確率分布が既に確定していて既知でなければ、期待効用理論は使えないように見える。
しかし期待効用理論によれば、起こりうる出来事の確率が未知である場合にも、逆に一定のNM効用関数の存在を前提とした上で、そうした効用関数に従う主体が、こうしたより強い意味で不確実な世界を前にして合理的な意思決定をする(整合的な選好関係を設定する)ことができるのであれば、その主体は起こりうる様々な状況に対して、事実上主観確率を割り当てていることになるのだ。
簡単に例示するとこんな感じだ――まず期待効用について考えよう。単純な線形の効用関数、具体的には金銭収入に正比例で効用も増える場合を想定する。ここで期待効用原理に従う主体は、こんな風に振舞う――50パーセントずつの確率で1万円かゼロか、のくじと、5千円の現金とを等価値とみなす。
今度は主観確率について考えよう。ここでは「複合くじ」について考えなければならないので、少しだけ複雑になる。ある未知の確率で1万円があたり、はずれならゼロのくじがあるとする。このくじと現金5千円との間で、期待効用原理に従う主体はどのような選択をするだろうか? もしここで主体がくじの方を選ぶならば、その選択を通じて、この主体はこのくじの1万円のあたりの確率を50パーセント以上だと予想していることになる。もしもこのくじと現金5千円との間で無差別なら――両者を等価値とみなしているならば、この主体はくじのあたりの確率をちょうど50パーセントと見積もっていることになるのだ。
このアイディアを敷衍してデイヴィドソンは、不確実な世界に生きる合理的な主体は、その欲求を実現するために、不確実な世界のありようについての、合理的な信念体系を形成せずにはいない――そして我々は他者をそうした存在として理解せざるを得ない、と論じているのである。
ということは、デイヴィドソン哲学を体系的に理解しようとするなら、大学院初級レベルのミクロ経済学とか、ベイジアン意思決定理論の素養が少なくとも一部必要になるということか……。
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