「労使関係論」とは何だったのか(14)

 戦前の大河内社会政策論から戦後の隅谷賃労働論、氏原労働市場論にいたるまで共通していた認識は、資本主義経済下の自由な労働市場を今日風に言えば「市場の失敗」が避けがたいものとして捉える、というものだった。問題はそれが具体的に言えばどのような失敗だったのか、である。


 戦後日本の労働問題研究を「制度派」と呼ぶにせよそれはアメリカ旧制度学派の影響をそれ自体としてはあまり受けていない。むしろそれは戦前来日本にとってもお家芸であったマルクス経済学、ドイツ社会政策学、そしてイギリスはウェッブ流の労働組合論の影響下にあったと言える。とりわけ戦後において主流の一角をなした「東大学派」=氏原教室は、労働組合と国家の労働政策を、資本主義に外在しそれを制約するものとしてよりは、資本主義的労働市場にその本来の機能を適切に遂行させるべきインフラとして捉えるものであった。この意味では、大河内一男の社会政策学から決別し、労働経済学を志したとは言え、氏原正治郎の発想は大河内のそれと根本的に異質なものではなかったといえよう。
 大河内社会政策論においても、またウェッブ夫妻労働組合論においても、個別資本の自由な活動に任せておいては、社会的な資源としての労働力は濫費されてしまう。むしろそれを国家の政策か、あるいは労働組合によって規制することによってこそ、労働力の質が確保され、生産力は向上する、というのである。
 今日の経済理論の枠組に従うなら、それは一種の、労働力の質、あるいは熟練の外部経済性として解釈するのが適切かと思われる。労働者の健康を保つこと、教養、あるいは労働能力を上げることは、一般的に言えば資本――古い、それこそ社会政策学の用語法に従えば「社会的総資本」――の利益にもなるはずだが、ベッカー以降の人的資本理論の枠組に従うならば、個別の雇用主――古い言い方をすれば「個別資本」――の立場からすれば、そのような一般的に有用な資質に対して投資する動機はない。せっかく訓練し、あるいは厚遇して健康や教養水準を上げた労働者に辞められて、他の雇用主の下に行かれてしまえば損だからだ。このような一般的技能、資質への投資の動機はむしろ雇われる側である労働者の方に存する。ただしこの場合、労働者が貧困であれば強い流動性制約と、資本市場の不完全性のせいで、訓練費用が調達できない可能性が高い。となれば国家の介入によって、経済全体の効率を改善する余地がある――と、このような論法として。
 もちろんこれ以外に、技術的な意味での外部経済、つまり技能を獲得した労働者が増加することによって一人当たりの生産性が上昇するという相乗効果が存在する場合も考えられる。内生的成長理論でいうところのAKモデル、ルーカス・モデルに対応する場合である。
 それに対してベッカー流に言えば「特殊的技能」、企業特殊的熟練に対しては、雇用主こそにその費用を負担する動機があり、「独占段階照応説」がまさにこのようなものであったことはすでに触れたとおりである。しかしよく考えてみれば、雇用主による一般訓練費用の負担を正当化する論理が全くないわけではないだろう。上では、労働市場は完全競争に近いが、資本・信用市場、ことに労働者その他貧困者が利用可能な金融市場が不完全・不完備だという状況が想定されていたが、労働市場そのものが不完全で、企業=雇用主の求人活動においても様々な困難が存在する場合には、雇用主にも一般訓練の費用負担を行う動機があるだろう。(近年のアセモグルらのベッカー批判。)


 ところで、仮にここでいうような意味での「市場の失敗」――ここでは資本市場の不完備性・不完全性が克服されたとすれば、資本主義的市場経済はどのようなパフォーマンスを上げることになるのだろうか? 

 まず、置塩信雄森嶋通夫の先駆的業績に始まり、ジョン・ローマーらによって新古典派経済学の枠組み――合理的選択理論・一般均衡理論――に統合された、マルクス資本論』体系の数理経済モデル化を参照しつつ考えてみよう。
 ローマーの80年代における作業によって、マルクス資本論』の搾取理論にはひと通りの見通しがつけられた。そこでは『資本論』の世界はレオンチェフ的な生産技術体系のもとでの完全競争市場経済として解釈しなおされ、そのもとで価格とは独立に生産技術から直接に「労働価値」が定義され、「労働の搾取」の概念もこの労働価値の概念を前提として厳密な定義を与えられる。そして資本家が利潤を上げられ、経済が全体として再生産可能な――つまりはごく健全な状態にある場合には、労働の搾取が必ず起きることが論証されている。豊かな者、豊富な資産を所有する主体は他人の労働を搾取する側――自分が市場に供出する労働の量より、自分の所得で購入した商品に投入された労働の量の方が多い――になり、貧しいもの、資産をわずかしか、あるいはまったく持たない主体は、搾取される側――先ほどの反対――となる。
 ただしここで注意されるべきは、搾取される側もその状態が絶対的に悪化しているわけではなく、むしろその反対であるということだ。搾取される貧困者には、取引に参加して搾取されるという以外に、取引に参加せず、市場経済の外で自足する、という選択肢も存在している。ここで彼らは取引に参加する方がしないよりまし――搾取さえされないよりは搾取された方がまし――だからこそ、取引に参加するのである。
 ただし、そこで想定されているレオンチェフ的なケースとは、かなり極端な想定である。これは技術がほぼ完全に固定的で、生産要素の間の代替性が全くなく、どのような価格のもとでも最適な生産要素の投入比率は変わらない。より端的にいえばこの状況では、生産性の変化がないので、人口増加に比例してしか成長が起きない――一人当たりでの成長はまったくない。そして主体間での所得と資産の格差は、各人の資産の価値に比例する形で温存され続ける。
 この場合政策介入の根拠として、たとえば不平等の是正を考えることができるだろう。ただしそうした不平等の是正の経済効果について考えてみるとどうなるだろうか? 課税(や公債発行)を通じた所得の再分配インセンティブをゆがめて総生産、総所得を低下させてしまうだろう。これに対して一気に資産そのものを強制収用して再分配するというやり方はこうした歪曲効果を持たないはずである。ただしその政治的実行可能性は極めて低いだろうが。

 これに対して、現代の経済成長論においてベンチマークとなっている新古典派のモデル――「ソロー的世界」と呼んでよいだろう――ではどのようになるかというと、まずそこでは生産要素間での代替性と、各生産要素の限界生産性の逓減が想定されている。おおざっぱに生産要素を「労働」と「資本」の二種類に括ってしまおう。「資本」の限界生産性についていえば、以下の通りだ。――労働はある程度資本でもっておきかえることができる。そして労働者一人当たりの資本の量(資本装備率、古いマルクス経済学用語でいえば「資本の有機的構成」)が増えれば、労働の生産性、そして経営全体としての生産性は上昇する。しかしその上昇の度合いは次第に鈍くなる。――同様のことは資本についても言える。
 基準となるモデルではレオンチェフ・モデルと同様、技術変化は想定されていない。レオンチェフ的生産技術とは違って、そこでは同一の技術体系の中で、ある程度の柔軟性――生産要素間の代替性が想定されている。この枠組での技術変化とは、それを超えたものであり、わかりやすいのはいわゆる「総要素生産性」の上昇、つまりある一定の生産要素の組み合わせの生産性の向上のケースだ。基準的なモデルにおいては、レオンチェフ・モデル同様「規模に関する収穫一定」=用いられるすべての生産要素をn倍すると、生産高もn倍となるとされている。つまり技術変化なしには総要素生産性の変化もない。
 このような生産技術についての想定の上で、先のレオンチェフ・モデルと同様に完全情報・完全競争市場を想定するならば、どうなるだろうか? 始めのうちはこのような経済は時々刻々と変化し続けるが、やがて長期的な均衡――定常状態に到達して、そこから動かなくなってしまう。こうなってしまえば既述のレオンチェフ的世界と変わりない。しかもこの新古典派的世界の定常状態ではレオンチェフ的世界とは異なり、所得と資産の格差が消滅してしまっている。
 システムの出発点においては主体間には資産格差と、それに由来する所得格差があるとしよう。簡単化のため、労働能力や労働供給量に差はなく、各人の労働所得はイコールで、人的投資によるその改善もなく、時間を通じて一定だとする。そうすると貯蓄によって蓄積されうるのは物的資本・金融資産だけだ。
 完全情報・完全競争の世界なので、用いられる生産技術は一種類だけであり、賃金も利子(単位あたりの資本所得)も経済全体での労働・資本の限界生産性によって決まり、すべての主体が同一の賃金・利子に直面する。ここで人口を時間を通じて一定とすると、増減する生産要素は資本だけになる。
 さてここで各主体はどのような行動をとるだろうか? 先に述べたとおりこのシステムには長期定常均衡が存在し、そこに到達した主体はそこから移動しようとはしない。具体的には、この均衡における一人当たり資本量、更には資本・労働比率、そしてその下での所得は、各主体にとって最適なものであり、そこから逸脱しようという動機がない。しかしもし主体がそこにいなかったら、この最適な状態に近づこうと努力するだろう。
 具体的に言えば、この最適状態における資本量を上回る資本を当初所有していた主体は、この資本――つまりは貯蓄を取り崩して、最適状態になるまで減らし続ける。逆に当初この最適状態が指定するよりも少ない資本しか持たない主体は、最適な資本量に到達するまで、貯蓄して資本を蓄積し続ける。それゆえに最終的には、すべての主体が同じ水準の資本を保有し、同じ所得を得ることになる。
 これは全く資産を保有しないプロレタリアが存在している場合についても同様である。もし仮に賃金が生存水準を有意に上回っていれば、貯蓄して資本蓄積を開始することができるし、そうではない場合にも、完全情報・完全競争の下では効率的な信用市場が存在して、資本利子率と同一の水準で、他者から資本を借りることができる。
 このように考えるならば、理想的な市場経済には、完全雇用どころか格差の是正能力まであることになるから、政策介入はこの想定された理想的な状況に市場を近づける、という考え方で一貫して行うことができる。たとえば、信用市場の不完全性・不完備性を補い、完全な資本市場を実現する、という戦略がすぐに想起される。もちろんこうした市場の整備があまりにも困難であれば、所得の再分配戦略も有効である、すなわち、再分配によるインセンティブの歪曲効果を、機会創出効果が上回る限りにおいて、それは十分に効率的でありうる。


 以上の議論はもちろん「大河内社会政策学や氏原労働経済学に内在していた論理の復元」などではない。あえて言えば「現代の主流派経済学の成果をそれが取り込み得ていたならば、このように再編されえていたかもしれない」という程度のものである。