井上達夫編『公共性の法哲学』(ナカニシヤ出版)

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 一番上の版元の紹介ページにある「まえがき」抜粋から略された中に……

「公共」が「共」の一字によって、抑圧的なオオヤケとしての「公」から区別されるというような紋切り型の説明」(井上達夫「まえがき」ii頁)

 どうみても××××のことです。本当にありがとうございました。


 はさておき。どうも厳しい緊張関係にある大屋雄裕論文と田島正樹論文と谷口功一論文をとりあえず読む。
 谷口論文を読んで(よい意味で)頭を抱える。以前酒席で氏が「立法者が一番偉い」とおっしゃっていたことの意味が少しわかる。


 拘束力のある決定は、それが権威を付与されるべき場合には、中心的[=政治システム、公式の回路]の狭い水路(sluice)を通り抜けてゆかねばならない。(ハーバーマス『事実性と妥当性』邦訳86)

 彼〔ハーバーマス〕はこの水門(sluice gate)の開閉が「可能的」であると言っているだけであって、水路へのcanalizingそのものは、「必然的」でもなければ「恒常的」でもない。むしろ、ここでの力点は“普段は閉じている”ということにおかれるべきなのではないか(pace Habermas)。また、水門の開閉弁は、(中略)現実の議会における時間資源の希少性その他の制度的ファクターによって構成されるハードなものである。
 なぜ水門は“閉じて”いる必要があるのか。それは、上述のde factoかつde jureでもある制度的与件(制約)に加え、「生活世界において感知された問題」が「政治的公共圏での増幅、及び公論の形成」へと導かれてゆく際の様態にも、その理由の一端を見出すことができる。このプロセスを媒介するものは、(中略)しばしば「市民社会に複生する自発的諸結社」として規定されるものであるが、この媒介者は一切ならず「公共性」を全き意味では体現し損ね、或いは甚だしくは僭称(詐称)しさえするのである(「公共性」騙り)。要するに「公共(性)」なる語は、なんにでも冠することの出来る一種のマジックワードであるからこそ、その使用に対する厳重な戒めとして、「水門」はデフォルトでは“閉じられている”べきなのではないか、と思われる。
(谷口功一「立法過程における党派性と公共性」175頁)<<