終了

http://cruel.org/other/gdp.html
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080903/p1


 終了。つまんないと言えばつまんないけど、変に盛り上げて馬鹿にエサをやらないという意味ではよいかもしれません。
 反省と気になったことを少し。
 mojimoji氏へ。「論点ずらしの感」ではなく「論点ずらし」ときちんと言えばよかったですね。それについてはすみませんでした。しかし「非同一性問題」にはご興味がない、と。感性の違い、といえばそれまででしょうが、それが疑似問題である可能性まで含めて、相当に面白いし重要な問題だと思いますが……まあ皆さんそれぞれ時間が有限ですから、しかたありません。人はあらゆる問題に関心を持つことはできないし、関心を持った問題すべてについてさえ、きちんとフォローし続けることができないわけですから、ないものねだりはよしとしましょう。
 山形氏へ。お暇ならパーフィットも読まれるといいかもしれませんが、例の小島批判から思いついたお話はゆっくりあっためておいていただけるとありがたいです。
 なお、追記の論点にはほとんど賛成なのですが、できればそれとは別にマクロ経済の話もしていただけるとありがたかったです。ぼくの勝手な解釈では、そちらでの対立の方が重要だったので……。
 「品がない」とは申しましたが、ポルポトの話もスターリンの話ももっともっと必要なのかもしれませんね。みんなひどい健忘症にあきれる、というより、若い人は本当に知らないのかもしれない。ファシズムもまた前衛ラディカリズムであり、ナチだって一種の「社会主義」だったといえなくはないのにね。いまだに一昔前のマルクス主義者のファシズム偽定義(独占資本や右翼反動主義者の合作、云々)を信じている人がいるのかな。


 なおこの未発の論争のゆくえに興味のある方は、引き続き、いちごびびえす経済板「お話しようね」をヲチなさってみてください。

追記

 なお「妖怪どっちもどっち」について云々してらっしゃる方がおられますが、むしろ「五十歩百歩」です。つまり「どちらもダメ」。「どっちもダメだから、どっちも責めてやるな」ではなく「どっちもダメだから、どっちも(以下略)」。
 一般論としてではなく、「資本主義・対・共産主義」の悪についていうならば、圧倒的に共産主義の悪の方が大きいというべきではないでしょうか。(ここでは共産主義を理念としてではなく、「共産主義理念を体制の正統化イデオロギーとしていた「現存した社会主義」というほどの意味で用います。)量的に(たとえば犠牲者の数)で測ったときにはどうか。総量としては、資本主義の成長過程での犠牲者の数が上回る可能性はあります(しかし議論の余地はある)が、それは資本主義が実行された歴史的時間や地域の広さに由来するところが大きく、それをウェイト付けして比較するならば、圧倒的に共産主義による犠牲者の数の方が多いはずです。
 更に言えば、資本主義は、もちろん実際にはひどい失敗をいろいろと引き起こしていますが、原理的には、適切な介入や誘導、制度的基盤の確保によって、厚生経済学でいうところの「パレート最適」に割と近いところへ社会を持って行ける性能があることは確かでしょう。それに対して、共産主義には、同等の性能がないことは、経験的にはもちろん、理論的にもほぼ論証されていると思います。
(なお「資本の原始的蓄積」論については、その妥当性自体をぼくは疑っています。少なくともその初期局面においては、資本蓄積は暴力的収奪なしには不可能だ、というたぐいの議論は、マルクス主義者のみならず一部の保守派によっても垂れ流されていますが、見直しが必要でしょう。)
 もちろん資本主義、市場経済体制にもさまざまな制度的・政策的下支えが必要です。ある種の共産主義批判者の中には、そうした非市場的契機を警戒するあまり、市場へのあらゆる介入・規制を「共産主義に向けての滑りやすい坂」として否認しようとする者もいました。その中でもマクロ経済政策は、私有財産権などの「制度」とは違って、裁量的なものであらざるをえないため、厳しい批判にさらされました。ただ今日では「マクロ経済政策は、裁量的ではあっても、恣意的であってはならない」との点についてが合意ができてきており、その「裁量の基準」についても知見が積み重ねられ、その観点から「滑りやすい坂」なる批判への対応も可能となっていると考えます。
 共産主義的理念に導かれた共産主義的実践は、たとえば一時期の「ネットワーク共産主義」といったスローガンに見られるごとく、あくまでも限定的かつ過渡的なものである、と考えます。これについては拙著『「公共性」論』で「公共性」概念に即して論じたことの敷衍で足ります。


 歴史的な経験の上では、すくなからぬ共産主義者「正義の味方」で「善意の人」だったろうことをぼくは否定はしません。多くの共産主義者は尊敬に値する人々であり、いくつかの偉業については素直に称賛すべきであるのみならず、その愚行と悪行についてさえ弁護の余地はあるでしょう。ただそれは基本的には「情状酌量」の域にとどまらざるを得ないと思います。「あまりに無能で悪辣な支配階級に対して、やむにやまれず階級闘争を起こした」といった事情は「情状酌量」の対象でしょうが、そのあと「市場経済を廃絶して中央指令経済に移行しようとした」点については、やはり「だめだ」と言わざるを得ない。もちろんこうした批判は相当程度後知恵(ハイエクらによる計画経済批判は相当早い時点で提出されてはいたが、議論の決着はやはり遅れたわけですから)に基づくものであることは確かで、ゆえに彼らに対してはその歴史的限界から来る無知ゆえの「情状酌量」は、ある程度成り立ちうるとは思いますが。
 付言するならば、今日なお我々が素直に称賛できる共産主義者のほとんどは結局ローザ・ルクセンブルグとか、アントニオ・グラムシなどの非業の死を遂げた「負け犬」であるという事実は、結構重たいものがあると思います。ルクセンブルグは仮に生き延びていたとしても、モスクワから完全に異端の烙印を押されるか、あるいは母国ポーランドナショナリストたちから裏切り者よばわりされるかの運命が待っていたでしょう。(付言すれば、彼女の経済理論は結論的にいえば誤りです。)グラムシは案外、戦後イタリア共産党で永らえた可能性もありますが、どうなっていたことか。「構造改革」との関係は、あるいは新左翼とはどう対応しただろうか――今となっては思弁にしかなりません。なお尾崎秀実もまたかっこいいと個人的には思いますが、それでもやはり「もし尾崎らが勝利していたら……」と思うと慄然とせざるを得ません。


 ということでこれくらい読まない奴とは共産主義の話はしない(『収容所群島』だとえぐ過ぎるとかいう文句が出そうだし);

コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て

コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て

また追記

 誤解があるようなので。ナチを左翼というつもりはもちろんありません。どちらかというと右翼でしょう。しかしラディカリズムであることにかわりはありません。ぼくの定義では右翼も左翼もラディカリズムであり、ともに原則的には危険な存在です。ファックオフ「根本病」
 もちろんときには「前衛(露払い、鉄砲玉)」ないし「後衛(殿軍)」としてのラディカリズムも有用でありえますし、その際には排外主義的な右翼よりも、普遍主義的な左翼の方が、危険も少なくその善用の可能性が高い分「まし」という程度の差はあるでしょう。彼らは決して主流にはなり得ませんし、してはいけません。まあ左翼はもちろんのこと保守派・右翼の皆さんも、この辺につき異論がおありかもしれませんが。なお旧エントリ「左翼・右翼・保守主義」ならびに拙著『「公共性」論』参照。


「公共性」論

「公共性」論


というか拙著なんかより「れっきとしたラディカリズムとしてのファシズム」像を打ち出した名著


ファシズム (岩波現代文庫)

ファシズム (岩波現代文庫)


とか若き共産党員だった過去の晩年における生産だったのかもしれないこの大著(コミュニズムが自らを「反ファシズム」と位置付けた欺瞞のプロセスを描き出して恐ろしい)


幻想の過去―20世紀の全体主義

幻想の過去―20世紀の全体主義


とかの方が重要でしょうが。

 感想戦として、トラバしてくださったsvnseedさんのエントリが大変有用です。

も一つ追記

 ぼくがぼくなりに非同一性問題にかかわって気にしているのは、例えばこういうことです;

クロノスは以下のような神学を提出している――ただ単純に創造が善であり、破壊が悪である、というわけではない。単なる破壊よりも一層根底的な悪があり、それはもてあそびはずかしめること、ただ単にもてあそび、はずかしめるだけのために創造することである。しかし人間が創造主となったとき、過ちからこの悪をなしてしまうことを避けることはほとんど不可能であるのだから、そもそも人間は創造をするべきではない――と。

 拙稿「マルチバースのビメイダー」拙著『オタクの遺伝子』(太田出版


オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界

オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界