トークセッションに向けてのメモ(続)

 先のエントリに対して「N・B」さんの有益なご指摘(http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060826#c1156710815)を得ました。
 「N・B」さんのご指摘の通り「他者の消滅過程それ自体が実は我々の介入によっている側面がある」以上、問題はよりいっそう深刻です。「東側」社会主義体制は勝手に崩壊したわけではなく、少なからず「西側」の我々からの働きかけもあって崩壊したわけです。また崩壊に向かわせる力とは反対に、支援もまた、主に社会主義に「希望」を抱く人々によって、しかしそれがすべてでもなく、赤裸々な打算からくるものも含めて、「西側」から送られていたはずです。そしてこのことはいわゆる「左翼」にとってこそ深刻な問いを突きつけると思われます。
 「左翼」はある時代までは社会主義に「希望」を見いだしていたはずです。その「希望」のありかは時代が下るにつれ、「現存する社会主義」から未だ来たらぬ「人間の顔をした社会主義」あるいは「本来の社会主義」へと移行していきました(そもそも「現存する社会主義」という言葉遣い自体が「本来の社会主義」等々との対比によってはじめて意味を持つものです)が、それでもなおその「希望」はある種の「社会主義」として理解されてきました。「西側」資本主義の世界に生きる「左翼」は、資本主義のみならず「現存する社会主義」もまた批判の対象として、「人間の顔をした社会主義」を「希望」とする――そのスタンスは「東側」の批判派・改革派とも共有されている、と自認してきたわけです。
 しかしながら「東側」「現存する社会主義」に生きる体制内改革派の人々の目指すところが、「人間の顔をした社会主義」からだんだんと「脱社会主義」へと変化していきますと、「西側」における「左翼」の「東側」「現存する社会主義」に対する姿勢にブレが生じてこざるをえません。「人間の顔をした社会主義」はその展開の中で「複数政党制議会政」と「市場経済」の少なくとも部分的な取り込みを行う「市場社会主義」になっていくわけですが、やがてたとえばブルス、コルナイが端的に示したように「市場経済のいいとこ取りのつまみ食いはできない」という論理とともに「(普通の)自由な市場経済」「資本主義」樹立の必要が主張されるようになります。この時点でもはや体制改革の目標は「社会主義」ではなくなってしまったわけです。となると「西側」の「左翼」は、どうすれば彼らのシンパでありつづけることができるのか? 
 しかし結局のところこの問いは、十分に突き詰められることはなかったのです。もちろん「西側」の「左翼」に同情すべき点は多々ある。体制移行の過程は、当事者たち、いかなる専門家たちの予想や思惑をも超えてあまりにも急速に、まさに「革命」として進行し、その祝祭的な展開に多くの人々が幻惑されてしまった。社会経済体制の問題は脇に置かれ、コミュニケーション、社交、政治の問題が前面に出され、体制移行は「市場経済化」よりも「民主化」「市民社会化」を焦点として理解され、受容されてしまった――ことに「西側」の「左翼」には。
 ――以上を確認したうえで、少しでも先に進みたいと思います。


 「社会主義の教訓」を我々は忘れがちである――と書いてしまうと、「安易に「我々」という言い方をするな!」というお叱りがあることが予想できます。となればやはりぼく自身の責任において述べておくべきでしょう。昨今ぼくは、「社会主義の教訓」が十分に消化されずに忘れられたがゆえに、「社会主義の回帰」が必ずしも望ましくない形で起こりつつある、という予感にとりつかれています。
 もちろん今日、ソ連型中央指令型計画経済への回帰を表立って主張するような声はほぼまったく聞かれません。たとえば、近年の左翼の政策戦略論においてやや流行しているベーシック・インカム論にしても、あくまでも市場経済を補完するものとして位置づけられており、その否定を意図するものではありません。あるいは反グローバリズム論やオルター・グローバリゼーション論にしても、市場経済はもちろん、国際貿易だって全面否定しているわけではなく、それこそかつてのトロツキズム的な世界社会主義構想を提示しているわけではありません。あくまでも市場が「暴走」しないように、それが社会的連帯を破壊し、弱者の生存を脅かさないようにたがをはめ、コントロールしよう、というだけのことです。
 それだけのことであれば昨今の左翼のオルタナティブ構想は、せいぜいのところ古きよきケインズ主義的福祉国家構想と、本質的に変わるものではないのではないか――そう解釈することもできそうです。
 ところが管見の限りでは、上記のごとき「古きよきリベラルへの回帰」とは微妙にだが決定的に違ったニュアンスを、ぼく自身は昨今の左翼の議論には嗅ぎ取ります。どういうことか? ぼくが引っかかるのは、まず第一に歴史観です。
 ぼくの見る限り左翼論客の多くは、具体的な政策構想として「市場の否定ではなく補完と抑制を」という主張をしていても、その主張はかつてのケインズ主義的福祉国家への回帰とはずれています。多くの左翼は、ケインズ主義的福祉国家を「過去のもの」とみなし、それへの回帰という形で自分たちの構想を語りたがりません。
 左翼にとって主敵――もはや否定し妥当する対象ではなくなってしまったが、しかし批判しその「暴走」を押さえ込むべきライバルであるところの市場経済、というより左翼好みの言い方をすれば、またあるいは「社会主義」との対概念として考えるならば「資本主義」は、左翼の歴史理解の中では段階論的に、つまり歴史の時間的進行を通じて、不連続的なジャンプを折々にはさむ形で不可逆的に発展していくものとしてとらえられています。そのような一種の進歩史観を左翼はストレートな「資本主義」支持者と共有し――というより、それ以上に真に受け、それを不可避の運命として受け入れてしまっているように見えます。だから左翼の変革構想は、「現存した社会主義」崩壊後の今も相変わらず、「資本主義のその先に進むこと」になってしまっている。しかしそれは空虚な(語の悪い意味での)ユートピアニズムか、あるいは逆に裏返しの「資本主義」礼賛、その神話化に過ぎないのではないでしょうか? 


 第二点はもう少し具体的で、より一層深刻です。昨今の左翼のオルタナティブ構想として、たとえば立岩さんもある程度好意的な「ベーシック・インカム」構想を取り上げてみましょう。一見したところこれは非常にささやかな構想です。少なくともそのような解釈を受け付けます。まず第一にそれは市場経済を否定していない。市場経済参加者に対して、ある一定の準備を提供する、あるいは生存のために意に沿わない形で市場に巻き込まれずにすむような条件を作るものにしか過ぎない。具体的な設計構想としてはさまざまなものがあるが、その一部は保守的自由主義の経済学者として知られるミルトン・フリードマンの提唱以来、少なからぬ経済学者の支持者を有する「負の所得税」構想と完全に一致しさえする。
 実際その運用に際しても、政府による裁量や強制の必要は、本格的な計画経済と比べれば問題とならないくらい少ない。うまく運用すれば現行の税務行政と同程度ですみ、公的扶助行政は大幅に縮小できる。つまり現行の福祉国家に比べても大いにその強権性を縮減することができる――ベーシック・インカム支持者はこう論じます。それはたとえば立岩さんの「冷たい福祉国家」構想にも通じるものでしょう。
 しかし本当にそうなのか? それですむものなのか? 
 ベーシック・インカム憲法学的に言えば「生存権」を実現するための機構として位置づけられます。もちろん現在でも生活保護行政というセーフティーネットがあるわけですが、それはいわばラストリゾートでしかない。そして現実の生活保護行政においては、生活保護給付は財政的な限界のなかに置かれており、給付に際しては行政機関の裁量と選別、監督がなされていて、申請者の権利はともすれば大きく制約されている。少なくとも言葉の上でのみかけほどの絶対的優位性を、生存権は認められていない。
 こうした現状を憲法学的に正当化するなら、どうなるでしょうか? 日本国憲法に即するなら、人権を制約する原理として「公共の福祉」(12条、13条、29条)があります。財政的制約をこの「公共の福祉」と解釈することもできなくはなさそうです。しかしこのような理解は今日のものではありません。まず一時期通説となった宮沢俊義芦部信喜の「内在的制約」説があります。これは「公共の福祉」を「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的衡平の原理」とするわけです。しかしこの場合でも「日本国政府の行財政総体は生活保護給付申請者の生存権以外の、たくさんの人々のたくさんの人権・権利をも実現していかなければならないから、その中で生存権もまた制限を受ける」という風な解釈が可能となり、生存権の絶対性は否定されます。
 それに対して近年では、長谷部恭男がロナルド・ドゥウォーキンにヒントを得て「切り札としての人権」論を提起しています。長谷部は憲法上の権利を、「公共の福祉」の実現のためにありその制約に服する権利と、そうではない、「公共の福祉」に還元されえない、個人の自律と人格の平等を守るための、厳格な意味での意味での人権とに区別します。この場合生存権はまさに「切り札」と解釈することが自然でしょう。
 ベーシック・インカム構想はまさにこのような「切り札」としての生存権を保障するための制度として、憲法学的に位置づけ可能である――このような立論が、支持者からは展開されそうな気がします。
 しかしこうした論法はどの程度ソリッドなものでしょうか? ここで考えるべきことは、「切り札」は「土台」ではない、ということです。あるいは「切り札」はいざというときにのみ切られるべきものである、とも言えます。
 ここで非常に強力なベーシック・インカム制、その給付水準が高く、今日の生活保護レベルと遜色ないようなものを想定してみましょう。これはどういうことかといえば、生存権の保障としてのベーシック・インカムが、それを備えた社会における「土台」になっている、ということです。たしかにそこでは自由な市場経済制度が想定され、税率はかなり高く、重いにせよ、経済活動の自由は保障され、政府にはそれをいちいち細かく統制する権限も負担もありません。ベーシック・インカムの給付水準設定の作業にしても、今日の生活保護におけるそれ程度のものですむでしょう。その意味では到底これは「社会主義」とよびうるようなものではない――一見そのようにも思われます。
 しかしながら問題は、ここでのベーシック・インカムはまさにこの社会における経済全体にとっての「土台」であり、そのようなものとして恐るべき死重である、ということです。「土台」であるということは、この社会の政府、この国家にとって、ベーシック・インカム給付の達成こそが絶対的な制約であり、場合によっては最優先目標として設定されてしまう、ということです。「内在的制約」説風に他の要請、他の政府機能との兼ね合いにおいて決定されるのではなく、まずそれが優先的に設定され、他のあらゆる政府機能(ぶっちゃけて言えば予算配分)はそれにあわせて決定される。もちろんそれだけではすまずに、そうした政府の必要経費をまかなうための租税の徴収の方も、その目的を達成できるようなものにされざるをえない――と。
 こうした政府、財政機構はもちろん、その見た目や形式においては社会主義計画経済ではありません。しかしながら政府が単一の絶対的優先目的を設定せざるを得ず、行財政のみならず、その負担を財政的に負うべき民間部門までにも、意図せずして強力な統制を行わざるをえない、動員体制になってしまう危険が大きいのではないでしょうか? 
 それは明らかに不健全な経済財政運営でしょう。むしろそうではなく、「生存権」を保障する生活保護行政は文字通りの「切り札」、例外的な少数者の救済にのみ動員され、経済財政政策の基本線は「「切り札」をできるだけ使わずに住むような経済環境の整備」にこそ置かれるべきです。つまりは生活困窮者の数ができるだけ少なく、その救済費用も当然少なく、納税者がその負担を意識せずにすむような経済状況を維持すること、その上でほとんどの人が忘れ、気にせずにいるところで、着実に生活保護行政その他の仕組みが作動していること。

 以上、ベーシック・インカムを例にとりましたが、これに限らず、昨今の日本を含めた先進国における左翼は、少数派のアドボカシーをもって任じ、「切り札」的論法を用いることが極めて多くなっているように思われます。「豊かな社会」が実現し、途上国においても広範な成長が始まりつつある今日、かつてのように多数派に、多数決的民主主義によっては、社会的弱者の友であることはできないわけですから、このような論法への傾斜――語弊がある言い方になりますが、民主主義よりもある種の立憲主義への傾斜が見られること自体は、仕方がないことだと思われます。しかしながら立憲主義の本丸であるところの憲法学者の少なからずは、このような動向をむしろ冷ややかに見つめているでしょう。それはつまり「切り札」は「土台」ではない、ということです。立憲主義は根本的なところで民主主義と対立するもので、連帯の論理でも、日常生活の掟でもありえない。そのことを忘れ、あたかも(「「切り札」としての立憲主義に制約された民主主義」ではなく)「立憲主義を「土台」とした民主主義」が可能である、と考えてしまったとき、そこにはまさに「社会主義の回帰」が起こっているのではないでしょうか。(続く?)