社会学雲散霧消への水先案内人

「ネタにマジレスカコワルイ」というお叱りはわかるが;
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050204#p1
 何というかコメント欄の冷笑的な物言いがきにくわんので一言。
 勁草の企画の肩を持つわけではないが、ここしばらくの「数理社会学」は、(合理的選択理論の延長としての)ゲーム理論と、(グラフ理論を基礎とした)ネットワーク理論という二つの焦点を持った、以前よりずっと落ち着いて生産的な研究プログラムになりつつある。
 「一見すると数理的手法になじまない意味世界の解明」にしても、ではいったいこれまで「意味世界の解明」を目指した作業の蓄積を顧みたときに、我々はいったいどの程度のことを達成してきたのか、虚心に振り返るならば、数理的アプローチを頭から馬鹿にできるほどの成果がすでに非数理的アプローチによって蓄積されてきた、とは言い難いのではないか。
 むしろ管見の限りでは、デイヴィッド・ルイスによる、ゲーム理論的な枠組みを用いての「コンヴェンション」概念の定式化の試み、あるいはダン・スペルベルによる、人文社会科学への自然主義的・物質主義的アプローチとしての「表象の疫学」といった、「意味」現象へのフォーマルな――広い意味での数理的なアプローチは、「意味世界の解明」の試みの中ではむしろ優れた達成と言えるのではないか。
 問題があるとすれば数理的アプローチの是非よりもむしろ、そのようなアプローチにおいて社会学者は周辺分野の専門家たち――ゲーム理論を磨いてきた数理経済学者たち、言語行為のモデル化に取り組んできた計算言語学者たち、あるいはマルチエージェントシステムに取り組んできた人工知能学者たち――に対して決定的に後れをとっており、その後れはなまなかなことではとりかえせないのではないか、ということである。ネットワーク理論でさえ、むしろ社会心理学者の方が先んじているのではないか。
 その意味でcontractio氏の「社会学雲散霧消への水先案内人」なる形容はかなり当たってはいると思う。
 関連して;
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/bks0307.htm