メモ

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050205
「要するに道徳的意見っていうのは、「選択されるもの」ではなくて、「ある規則に従って産出されるもの」なのであって、だからこそ俺は「異なる道徳を持っている人々とどのように公共圏を形成するか」という問題(それだと何か道徳的意見というものが、その産出条件を問われないまま、無から生み出されるなにか、ランダムかつ主体的に選択されるなにものかになってしまう)よりも、「どういう社会的条件のもとで特定の道徳的な意見と態度のまとまりが産出・維持・伝達され、変容・消滅するのか」という問題のほうに興味がある。」

 これは全くその通りであり、メタ倫理学者、あるいは道徳現象に対する社会科学的分析者としては健全な立場である。
 しかしそこから一歩踏み出して実践的な価値規範を定立したり、あるいは制度設計をしようと思うならば、どうなるか? 
 もし仮にここで「ある規則」の正体を十分に看破可能であり、かつその規則に基づいて人々のハビトゥスを、あるいは当の規則自体さえも操作することは可能であるしまたそれが望ましい、と考えるならば、これはかつてのロシア・マルクス主義未来派的な人間改造思想や、あるいは積極的優生学と同じ轍を踏むことになるだろう。
 僕の直観ではこの「規則」、道徳の産出条件それ自体は、生物進化のプロセスとか、産業の発展のそれと同じく、事後的にのみ理解可能であり、かつ大域的には操作不可能なものと思われる。(厳密な論証は略するが、社会主義計画経済の教訓はかなりの程度有効なアナロジーを提出してくれるだろう。)
 省察的なメタ倫理学者としては我々は「どういう社会的条件のもとで特定の道徳的な意見と態度のまとまりが産出・維持・伝達され、変容・消滅するのか」を徹底して問うことができるしまたそうした方が大体の場合楽しいと思うのだが、道徳を産出する「ある規則」に直接したがっているというよりは、むしろその規則の産出する道徳にこそしたがって生きている(実はもちろんここのところをこそきちんと論証しなければいけないのだが、とりあえず直観的な認識のみを示しておく)我々としては、実践的な倫理主体としては、結局どこかで「異なる道徳を持っている人々とどのように公共圏を形成するか」という問題とつきあわざるを得ないと思われる。
 あるいはこれは倫理的と言うより政治的問題なのかもしれないが。

 あるいはまた、このように言った方がすっきりするかもしれない;
「どういう社会的条件のもとで特定の道徳的な意見と態度のまとまりが産出・維持・伝達され、変容・消滅するのか」という問題から引き出される答えは、様々な社会的諸条件と、そこから生み出される道徳的態度のルースな対応関係、法則性のチャートのようなものになるだろう。しかしそのチャート自体は、それら様々な道徳的態度を道徳的に比較するための基準を与えてはくれないだろう。ただ、ある種の倫理体系は、ある種の社会的(のみならず生態学的、物理的)条件の下では実行不可能、ないしその実行に際して著しい困難を伴う、くらいの消極的な提言の役には立つかもしれない。しかしそのネガティブなテストを超えて生き延びる倫理体系のとりうるレンジは、少なくとも我々の現在の物理的・生態学的・社会的条件の下では、結構広いのではないだろうか。