『社会学入門・中級編』の予告を兼ねて

shinichiroinaba.hatenablog.com

の続きとして。

 

 『社会学はどこから来てどこへ行くのか』は「「社会学は地味な学問なんだから地味にやろうよ」というメッセージを派手にやっているという変な本」である、と先に述べた。「地味なことが大事だ」と主張する派手な本、というのは要するに言行不一致の恐れがあるわけで、その分隙があれば責められるのは仕方がない。その辺を考えたうえで、本書の背景というかコンテクストについて、個人的な感想を述べておこう。
 『どこどこ』は基本的には岸と北田のイチャイチャ本であり、筒井と稲葉はゲストという以上のものではない(にもかかわらず応分の印税をいただいていることには感謝の言葉もない)のだが、そのことによって本書についての責任をまぬかれようというわけではもちろんない。というのは、本書に至る二人の議論の形成において拙著『社会学入門』もそれなりの影響を与えていないわけではないだろうからであり、また本書がきっかけになって、次なる拙著『社会学入門・中級編』が書かれることになったからでもある。
 『どこどこ』は「「地味なことが大事だ」と主張する派手な本」だと述べたが、『入門』もまた似たような矛盾、というか緊張を抱えた本である。あれは「社会学における一般理論の不可能性」を主張した本なのであるが、そのようなことを論じること自体が、「社会学における一般理論への欲望」と同種の全体性への希求に他ならないのであり、その意味で結果としてあの本は「社会学における一般理論」については語ってはいないが、自分なりの視点から「一般理論が不在であらざるを得ない社会学」という全体について語ってしまっている。社会学が全体社会を理論的に総括することなどできはしない、と言い切ることで、社会学をその外側の社会とともに描いてしまっている、ということだ。
 『どこどこ』にもそのようなところがある。とりわけ北田が初期シカゴ学派に向かうときの視線はそのようなものである。ただ『入門』の問題というか病が「全体」であるとするならば、『どこどこ』においてそれにあたるのは、とりわけ岸の場合にはわかりやすいが「他者」であろう。このあたりも我々が共有する「黒歴史」としての現代思想経験が影を落としている。誤解していただいては困るのだが、我々は別に「黒歴史」を多少は恥じてはいこそすれ、否定しているわけではない。「黒歴史」あっての我々である。ちなみに私見ではそうした「黒歴史」を消化した世代の日本社会学者による最初の達成が立岩真也『私的所有論』であり、これもまた「他者」論である。
 しかし見方を変えて言えば、学的枠組みが設定した「全体」を逃れ出る外部の現実としての「他者」、という構図それ自体が、いま一つの「全体」であることは否定しようがない。学の「全体」によって外部の「他者」のありようをあらかじめ決定することはできないが、現実の他者は決して学によって理解不能ではなく、理解されることによって「全体」は事後的に形成され、というそれなりに幸福な、いっそ予定調和と言いたくなるような図式が、そこにはほの見えるだろう。
 もう書きあがって入稿してあるので今から予告しておくと、『社会学入門・中級編』もまた『入門』『どこどこ』を良くも悪くも反復する書物だ。そこでの主題は理論社会学から、実証研究まで含めたリサーチ・ストラテジーへと拡張され、理論と実証の関係、また実証研究における歴史研究と社会調査の関係、更に「質的」研究と「量的」研究との関係がそれぞれ細心にしかし暴力的に検討される。『入門』で諦められていた「一般理論」は改めてその不可能性を宣告され、理論は社会学アイデンティティの要石としての座から最終的に引きずりおろされる、
 しかしながら――ある種の質的社会調査、伝統的には「知識社会学」と呼ばれ、近年では言説分析と呼ばれるような作業、あるいはエスノメソドロジーによる概念分析が、代わって社会学のアイデンティを支える要石として召喚される。このロジックを岸は「社会学史に残る」と激賞し、井頭昌彦も「極めて興味深い分析」と評価するが、これはもちろん、社会学の窮地を救うべく、稲葉が画期的なアイディアを提出した、というわけではない。「現に社会学という学問が衰退せずに継続されている以上、何かがそれを可能にしているはずだ、だとしたら何が」という推論の果てに、ある解釈を提示したに過ぎない。
 いずれにせよそれは、諦められていた全体性が、ひょんなことで回復される、という物語を凡庸に語っているにすぎない、と言える。もちろん全体性は失われていたわけではない。つねにすでにそこにあったのに、しばしば私たちはそれを忘れてしまう、というだけの話だ。
 そしてそのような「全体性」が(あるいはそれを逃れる「他者」)が実感できないと不安になる、というのは、必ずしも一般的な態度ではないらしい。ある世代以降の社会学者にとっては、そんな不安は問題にもならないようだ。そのずれに横たわる何か――おそらくはそれ自体がひとつの「歴史」であるらしい――の正体をまだ、私はつかみかねている。とりわけ『入門・中級編』がそれをつかみかねているのは、『入門』とは異なり、ある程度意識的に「歴史」的な語りを排除して、社会学と言わずに「因果推論」をキーワードに「科学の現在」に無理やり定位しようとしたからだ。だがそのずれを埋めるためには『入門』そして『「新自由主義」の妖怪』とはまた別の形での「歴史」を書かねばならないだろう。あれらは「理論」の「歴史」に過ぎないからだ。