ゲームと公共性

 新宿高校で配ったメモ。

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明治学院大学社会学社会学科 出張模擬授業(都立新宿高校、2006年6月28日)

ゲームと公共性


稲葉振一郎明治学院大学社会学部教授 URL:http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/


*ここでいう「ゲーム」は日本語で言うところの広義の「テレビゲーム」、英語で言えばvideo gameを中心に考えている。狭義の「テレビゲーム」は言うに及ばず、ファミコンなどの家庭用ゲーム機や携帯ゲーム機用のゲームはもちろん、パソコンゲームや業務用マシン上のゲームをも含む。「ヴィジュアル中心のコンピュータゲーム」と言い換えてもよい。
 オンラインネットワークゲームについては、とりあえず考察から除外する。これは重大な限界である。



 80年代半ばから、おおよそ90年代半ばまでの十余年の間に、日本においてゲームは娯楽の王様――に近いところまでのポピュラリティを獲得した。のみならず、日本発のゲームがソフト(ゲーム機)、ソフト(ゲーム本体)の両側面において、世界のゲーム産業(そしてゲーム文化)をリードした、とも言える。しかし今日ではそうした趨勢にも陰りが見られ、ゲーム産業(そしてゲーム文化)は転換期を迎えつつあるように見える。
 今日はこの間の事情を、現代社会思想における重要な問題提起としての「公共性(の構造転換)」をヒントに考えてみる。



 「公共性の構造転換」という言葉はドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの著書からきたものであり、ハーバーマスは市民革命後のヨーロッパに成立し、以後世界に広がっていった、「人間は本来自由であり、そのような存在として平等である」という理念に導かれた、お互いに対等な人々の自由な交流の場として社会を「市民的公共性(公共圏)」「市民社会」という言葉で呼ぶ。
 そうした理念、また理念がリアリティを帯びるような社会的前提としてはもちろん、市場経済の発達とか法の支配とかいろいろな条件が必要だが、ハーバーマスが注目したのはメディア、ことに初期近代においては活字メディア、具体的に言えば新聞の出現や産業としての出版、そしてその商品の中味を提供するものとしての「ジャーナリズム」や「文学」の発展だった。
 しかしこうした「市民的公共性」の基盤となるものはジャーナリズムや文学だけではなく、美術、音楽、演劇などの芸術一般、更にもっと通俗的な大衆的娯楽(もっともそれらと狭義の「芸術」との区別は不分明である)などもそうである。市場経済を通じて、またあるいは義務化され大衆化された学校教育を通じて広く供給され、享受されるようになったこれら広い意味での「文化」が、「市民的公共性」の内実をなす。
 ところがハーバーマスによれば、この「市民的公共性」は19世紀末頃あたりから変質、「構造転換」を遂げていく。18世紀から19世紀初期までの頃の「文化」においては、送り手はまだ個人や零細業者主体であり、受け手の方は財産と教養のある貴族や上級市民層が主体であって、両者は対等だった。しかし19世紀末から20世紀にかけて、このような条件は崩れていく。経済における大企業の台頭、また国家機構の肥大化によって送り手の側が自由な個人や小企業ではなく、大企業や国家官僚などの独占的組織主体となる。また受け手の側においても、義務教育の普及によって識字率は上がったものの、まだ「文化」に触れてまもなく、そのありがたみもよくわからない、貧しい大衆が主体となる。かくして「文化」は「文化産業」となり、双方向というより一方向的となり、内容的にも低俗化していく――ざっとこんなストーリーをハーバーマスは描く。
 これにはいろいろと突込みどころはあるのだが、それなりに有用な見取り図を提供してくれることはたしかである。全体社会についてのみならず、個別の文化ジャンル(それも20世紀に出現したジャンルである、映画などの後発のものも含めて)についても、こうしたサイクルが観察できそうな気がする。たとえば20世紀の大衆音楽について、ジャズやロックの歴史はこの観点から見てなかなか興味深いし、戦後日本のマンガについては言うまでもない。



 ではテレビゲームはどうか? テレビゲームは、ことに90年代の長期不況下においては、最も国際競争力のある部門として、つまり「産業」としての注目は浴び、評価は受けたが、「文化」としてはどうだろうか? たしかに「芸術」として尊敬されたゲームがあるかといえば、これは怪しいところである。しかしながら、ゲームが単なる「産業」にとどまっているかといえば、決してそうではない。
 たとえば『ドラゴンクエスト』『ポケットモンスター』といったメジャータイトルを見てみよう。それらはたしかにビジネスとして大成功をおさめている。ゲームにとどまらず、マンガ、アニメ、キャラクターグッズ等々の「マルチメディア展開」の模範例だ。しかし『ドラクエ』『ポケモン』の成功は単にビジネスとして儲かっているというだけのことではない。これらのゲームの成功は、ファンたちの無償の情熱によって支えられている。グレーゾーンであるところの、コミケなどにおける同人活動はもちろんその一環であるが、それだけではない(これらのなかには、まさに有償の「ビジネス」となっているものもあり、それゆえ時に著作権違反で摘発されることもある)。そうしたアクティブなファンの何倍もの普通のファン(自分を「ファン」と意識してさえいないかもしれない)が存在し、更にその何倍もの、「ファン」とはいえないまでもそれについてある程度の知識を持っている人々(これらの層と、自覚のないファンとの区別は実際には難しい)が存在している。つまり『ドラクエ』『ポケモン』は不特定多数の人々の間の共通了解の基盤となっていて、それを土台として見知らぬ人々の間の交流を刺戟し、新たに社会的に有益な活動(ビジネスであれそれ以外の何かであれ)への触媒としての役割を果たしうる、ということだ。
 だから『ドラクエ』も『ポケモン』も、もちろんそれに関する著作権等々の、そこからビジネス上の利益を独占的に引き出す法的権利はいまだ失効してはいないわけだが、そうした法的権利を持っている企業だけのものでは実はなく、それどころかファンたちだけのものでもない。そして企業側もそのことを理解している(だからこそ同人活動は、時にルール違反を犯していたとしても、よほどのものでなけれ大目に見られる)。



 だが現在の状況を見る限り、テレビゲームは、少なくとも在来型のスタンドアロン(非オンライン)ゲームについては、頭打ち――少なくとも踊り場に到達しているように見える。ビジネスとしてみるならば、熱狂は去った、と言ってもよい。なぜか? 
 あくまでもビジネスに視野を限定してみるならば、とりあえずはゲーム制作が「儲からなくなった」とは言えそうである。80年代までであれば、たった一人で、パソコン一台で、プログラムを一行一行手で打って作り上げたゲームが大ヒットしてぼろ儲け、ということもまだありえたが、その後コンピュータ、ゲーム機のことにハードウェア面での革新、ことにオーディオビジュアルのみならず体感まで含めての表現力、感覚刺激機能の向上が、ゲームソフト制作を著しく高コストにした。フルCGフルボイスが当たり前となった今日、もはやゲームはそれなりの財力なしには作れず、利幅も少ない。
 しかしながら上記の事情に対しては、反対方向に働く力もあることを指摘しておかねばならない。そもそもパソコンというものがコンピュータの歴史上の一大革命だったことを思い起こさねばならない(若い人はそもそも知らないだろうが)。最近では支援ソフトのおかげで一人でも根気さえあれば、そこそこのフルCGアニメ作品を作れてしまうような環境が整ってきている。そこまでいかなくとも、ごく普通のマス商品である「RPGツクール」を使えば、10年前のスーパーファミコンのRPG並みのスペックのゲームが、特にソフトウェア技術に通じていない素人にだって作れてしまうのだ。
 では何が問題なのか? もちろんいろいろな要因が絡む。どんな文化ジャンルにだって、技術の発展といった要因とはある程度独立に、その最盛期というものがあり、後の時代になればなるほど洗練されてすばらしくなるわけではない。西洋音楽の歴史を見れば、そのピークはいわゆるクラシックにおいて19世紀だし、ポピュラー音楽においても、ジャズの最盛期は1950年代からの本の2,30年ほど、ロックの場合もやはり最良の時代は60年代から80年代だろう。基本的に面白いことは比較的早くやり尽くされ、あとは古典的レパートリーをあれこれ再演して楽しむことを繰り返すのみ――というパターンは、結構普遍的なのかもしれない。
 だがそれだけじゃあんまりにも当たり前だ。もう少し踏み込んで考えてみたい。



 桝山寛『テレビゲーム文化論』はなかなかの好著だが、テレビゲームというものの特徴を「相手をしてくれるメディア」としてとらえている。本も(その一種?たる)マンガも、また映画も(その一種?たるアニメも)いわば一方通行であるのに対して、ゲームは「インタラクティブ」なメディアである。桝山はその自然な発展の延長線上に、『シーマン』『がんばれ森川君2号』などにその予感がほの見え、またAIBOがまさにその先駆である「人工生命ペット」を展望している。たしかに一方ではこのような人工生命、そして他方ではオンラインネットワークゲームが、テレビゲームの未来であり、在来型のスタンドアロンのゲームはその生命を終えたのかもしれない。
 だがよく言われることだが、本(マンガ)は必ずしも全面的に一方向性のメディアというわけではない。ただ受動的にぼーっと見ているだけでは実は楽しめず、積極的に読み込み、解釈しなければ、本当の面白さはわからない。また受け手から作り手に転じることが最も容易なメディアでもある。映画(アニメ)になると、受動性はもう少し強まり、受け手の送り手への転身ももう少し難しくなるが、基本的には同様である。
 そして実は、ゲームについても同様のことが言える。先述の「RPGツクール」問題は今さら再論しない。普通にゲームをプレーする際に発揮される、プレーヤーなりの「創造性」について考えたい。
 まず気付かれるのは、反射神経やとっさの判断力が問われるアクションゲームにおいては、ほとんどフィジカルなスポーツ同様の「運動神経」が問われ、称賛に値する「美技」というものがありうる、ということである。であればこそ「ゲーマー」という職業が、非常に狭い市場としてではあれ成立する。こうした「ゲーマー」たちがゲーム制作の最終工程や販促イベント、攻略記事作成において活躍するのは、そのソフトウェア知識においてではない(プログラム技術を持たないゲーマーも存在する。)
 ではアドベンチャー・ゲーム、RPG、シミュレーション・ゲームなどにおいてはどうか? これらのゲームにおいては「運動神経」はほとんど問われないし、在来型の伝統的なゲーム――将棋、碁や麻雀、そして各種カードゲーム――とは異なり、戦略型シミュレーション・ゲーム等をのぞけば、正面から「思考力」が問われることもそれほどないように見える。
 実際、普通にいわれる意味でのゲームの「インタラクティブ」性は、制作側が受け手=プレーヤーに対して複数の選択肢を提示していて、プレーヤーはその中から選択できる、という程度のことしか意味しておらず、そんな自由は大したものではないし、プレーヤーから制作側へのフィードバックの回路も、ゲームそれ自体の中には実はない。たしかにこの種のゲームにおいてはプレーヤーは、制作者が仕掛けた謎を解き、罠をくぐり抜けることを期待されている。しかしそうした謎も罠も、基本的には一回性のものであるはずだ。(これに対して自律的人工生命やオンラインゲームにおいては、真のインタラクティブ性が組み込まれている、と言ってもよい。)
 それでもなお、プレーヤーが真に創造的な、すなわち、制作者が予定せず、予想していなかった遊び方を発見する、ということがありうる。いわゆる「やりこみ」である。
 古くは「ゼビウス」あたりから有名になった(中沢新一ゲームフリークはバグと戯れる」『雪片曲線論』所収)のだが、プログラムにはつきものの「バグ」、軽微なプログラムミスである。もちろん制作者は商品の品質管理には気を遣い、ゲームソフト制作のの最終工程においては、テストプレイを通じての「バランス調整(ゲームの難易度の調整)」と「デバッグ」が必ず組み込まれている。にもかかわらずどうしても見落とされ、とりきれなかったバグというものが残る。もちろんそのようなバグは見落とされるほど軽微なものであるため、普通に遊ぶ分には障害とはならない。だが時折出現しては、ゲームを奇妙な状態へと追い込む。ところがマニアックなプレーヤーたちは、このバグを単なる動作不良として糾弾するよりは、それ自体を楽しむようになり、バグによっては「裏技」として珍重しさえする。
 しかしこうした「バグ技」遊びが「やりこみ」のすべてではない。RPGにおいて典型的な「やりこみ」には、低確率でしか出現しない「レアモンスター」「レアアイテム」探しや、ゲーム自体をクリアするためには通過する必要のない「隠しイベント」「隠しダンジョン」攻略がある。しかしこうした「隠し要素」はあらかじめ制作者の側が用意したものにすぎない、とも言える。
 これに対して注目すべきは、たとえば一時期の『ファイナルファンタジー』あたりから、いくつかのRPGにおいてはやり始めた「低レベルクリア」「スピードクリア」「魔法封印」「一人パーティ」等々の変則プレーである。こうした変則プレーはもちろん、ゲーム内で用意された自由度をわざと無視して、自発的に禁じ手やその他拘束を設けての遊び方であるが、このようなプレースタイルがそれなりの楽しさをもつものとして認知されているのは、一見逆説的にも、ゲームのなかに一定の自由度が仕組まれているからである。
 プレーヤーのゲーム中分身を異なる「職業」の複数キャラクターをそろえた「パーティ」とする、という、今日RPGにおいて標準となった仕組みは、原点たる『ウィザードリィ』以来(そしてコンピュータRPGのご先祖たるテーブルトークRPG以来)の由緒正しいものだが、『ドラクエ』の「ジョブチェンジシステム」や『FF』の「アビリティシステム」以降、これら「職業」「スキル」の組み合わせの自由度を著しく高め、制作者の方でもなかなか予想しきれないような遊び方のバリエーションが生まれるようになった。その中から出現してきたのが、各種の変則プレーである。普通に攻略していく、ことに次第に強くなる敵キャラと戦うための順当なやり方は、普通に自キャラにさまざまな能力をつけ、パラメータを上げて強くしていくことだが、自由度の高いシステムは工夫次第で著しく偏ったキャラ、パーティでもゲームを進めていくことができる。
 ファミコン出現以来20年ほどたった今日、市場においてメジャータイトルとして君臨しているRPGのほとんどは、このような「やりこみ」を許容するタイプのゲームである。そしてこのような「やりこみ」の主役はあくまでもプレーヤー、一般のユーザーたちであってメーカー、制作者たちの側ではない。そして初期においては攻略雑誌投稿欄や口コミではじまったユーザーたち同士の自発的なコミュニケーションは、そして後にはパソコン通信、そして90年代後半以降はインターネットで一気に拡大し、制作サイドからの大幅な自律性を獲得した。この局面において、ゲームをめぐるコミュニケーションの場は一種の「市民的公共性」を獲得したと言えよう。ゲームそれ自体はメーカー側が作ったものであるが、しかしこのゲームをめぐるコミュニケーションの場は決してメーカーによって支配されてはおらず、また閉じてもいない。



 ところが近年、おおざっぱに言ってPS2以降のRPGにおいては、この「やりこみ」の退化――というより陳腐化とでもいうべき現象が起きているように見られる。
 「バグ技」や「やりこみ」はもともと、よくもわるくも「いたちごっこ」である。バグは言うまでもなく制作側のミス、意図せざるものであるし、「やりこみ」についても、その可能性自体は制作者の意図によって開かれたものであったとしても、その具体的内容はあくまでもプレーヤー、ユーザーの側のイニシャティブによって作り込まれていくはずのものである。しかしながらメーカー、ゲーム制作者の側でも、こうした「やりこみ」がゲームの快楽の大きな部分を占め、「やりこみ」甲斐あるゲームが売れる、ということは当然了解されている。その結果制作サイドも「やりこみ」要素をゲームに込めようと努力するわけであるが――問題はバランス、さじ加減である。「やりこみ」要素は周到に作り込みすぎると、かえって「やりこみ」を不可能にする――単なる「隠し要素」に堕する、という危険と背中合わせである。制作者の「作り込み」と、ユーザーによるその裏をかく「やりこみ」のいたちごっこがうまく続いていくことこそが理想であるわけだが、どうもそのバランスをとることが、近年ひどく難しくなってきているようである。
 初めから複数回クリアを当然のこととして想定してるゲーム、またあるいは、「隠し要素」データ容量の過半をとるゲームが、近年とみに増えている、とも言われる。ミニゲームや隠しイベントをやたらと詰め込み、「遊ばされている」という感覚をプレーヤーに強いるゲームもまた増えている。ぼくが「ゲームの曲がり角」「ゲームにおける公共性の構造転換」の予感を抱くのは、はこのような現象ゆえである。
 ではこれからゲームはどこに行くのか? あるいは、スタンドアロン型の「テレビゲーム」が衰退するとして、そのあとに何が来るのか? それについてはまた、別の機会に考えることにしよう。


◆参考文献
ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』未来社 難しい。大学入ってからでよい。
興味のある人は中岡成文『現代思想冒険者たち ハーバーマス』(講談社)から。
桝山寛『テレビゲーム文化論』講談社現代新書 読みやすい。
岡田暁生西洋音楽史中公新書 読みやすい。
稲葉振一郎『モダンのクールダウン』NTT出版 わりと難しい。