はだか祭りあとの祭り

とゆうことでレジュメを晒します。
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松尾匡はだかの王様の経済学』コメント               2009.7.11
                                  稲葉振一郎
                            
 評者の松尾へのいまだ満たされざる期待――旧著『近代の復権』以来の――はむしろ以下の二点にかかわっている。

1.「疎外」(ならびに「物象化」)を「不完全情報」という視角から分析するとどうなるのか?

 マルクスミクロ経済学についてはおおむね二つのレベルが考えられる。ひとつは情報の完全性を前提とした非貨幣経済のモデルを用いたものであり、これはたとえばジョン・ローマーの80年代ころまでの仕事で代表される。そこでは搾取は問題とされる(が、ともすればリダンダントな概念とされる)のに対して、疎外は普通は問題とされない。(たとえばローマーは「労働疎外」を雇用労働における支配関係と解釈したうえで、疎外と搾取の相互独立性を主張する。)
 これに対して不完全情報を前提したモデルというものも考えられる。吉原直毅の労働規律を組み込んだモデル(モラル・ハザードを考慮した効率賃金モデルのバリエーション)はその一例であるが、今ひとつ、貨幣を明示的に組み込んだモデルが考えられる。たとえば、貨幣のサーチモデルをもって貨幣の物神性論を再構成することが可能であろう。
 松尾は搾取論と疎外論を不可分な形で展開しようとしているように見えるが、それは哲学的概念分析としてはともかく、フォーマルサイエンスとしての数理経済学の土俵の上では困難であるように思われる。
 松尾は他方で、疎外のフォーマルモデルについてのひとつの考え方を提出している。すなわち、逆選択状況におけるシグナリングを一種の「疎外」「物象化」と解釈するという戦略である。松尾は具体的には労働市場における統計的差別について論じているが、これは当然金融市場にも応用可能である。さらにまた先述のとおり、貨幣の物神性のサーチモデルも可能であろう。
 効率賃金モデルについても、以下のような解釈が可能である――「労働力商品」というイデオロギー的偽装によって、実態としては支配関係、指揮命令関係である雇用関係を、あたかも対等な取引関係であるかのように、労働者は錯覚させられてしまう、と。ただこれはあまり生産的な解釈ではない。雇用関係の実態に即するならば、通常の解釈のように、長期雇用の継続と引き換えによる、ないしは19世紀以前を念頭において、雇い主の実力や刑事罰による懲戒の脅しの下での指揮権の受け入れ、と考える方がリアルだろう。

 松尾は疎外と搾取を結び付けて論じたい(疎外を基礎としてその上で搾取を論じたい)ようだが、それぞれ別々に論じるという戦略も当面はありうる。私見では、上のような解釈を採る限りでは、疎外と搾取とは互いに独立となる。富の分配が不平等であれば、疎外がなくとも(完全情報でも)搾取は生じる(この場合均衡は効率的)。富の分配が平等であれば、疎外があっても(不完全情報でも)搾取は生じない(この場合不完全雇用均衡)。不平等は搾取に、疎外は不完全雇用に対応する。
 そのように考えると、雇用関係その他の階級間関係は、搾取よりもむしろ疎外として解釈されることになる。疎外を不完全情報と考える以上、むしろ当然であるが(プリンシパル―エージェント関係)。

 仮に疎外を強引に拡大解釈し、資本市場の不完全性をも含めて考えてみるならば、疎外によってこそ富の不平等が起きる(というより解消できなくなる)、と言うこともできるのだろうか? 

 松尾の構想を生かした形で現代マルクス経済学の教科書を書くとすれば、ローマー的な階級・搾取・富の対応理論と、サーチ理論的疎外論による貨幣経済論・労働市場論・産業組織論を組み合わせるという戦略が考えられるのではないか。


2.段階論・社会主義

 1においては「原理論」レベルの話をしたのだが、では「段階論」はどうなるだろうか? 
 松尾はいわゆる「後期資本主義論」「現代資本主義論」に対しても独自の構想を提示している。松尾は20世紀資本主義を「独占資本主義段階」として理解する一方で、それを必ずしもケインズ主義と等値しない(ケインズ主義を独占資本主義の一部とみなさない)。松尾のケインズ解釈はマネタリーな側面を重視するものであり、自由主義段階においてもケインズ景気循環は起こり得てケインズ主義の出番はある、と考えている。すなわち、松尾はケインズ主義を景気循環論ベースで考えており、段階論ベースでは考えていないことになる。
 その一方で松尾は20世紀末の「福祉国家の危機」と新自由主義的政策思想台頭の時代を、独占資本主義から自由主義的資本主義への回帰と解釈する。しかし多くのマルクス系論者とは異なり、松尾は独占資本主義とケインズ主義との必然的結びつきは否定するため、この移行を「国家独占資本主義の解体」とはみなしても「ケインズ主義的福祉国家の解体」とは必ずしもみなさないだろう。
 ただここで問題は、松尾はケインズ主義理解においてマルクス経済学の大勢からははっきりと距離をとっているのに対して、独占資本主義理解についてはその限りではない、ということである。すなわち、松尾は独占資本主義を一種の「段階」と見なしている。しかしなぜこれが19世紀的資本主義とは構造的に異質な、別個の「段階」と見なしうるのかについて、積極的な議論は提示されていない。

 松尾はまた社会主義についても、資本主義の次に来るべき一個の歴史的な「段階」と見なしているように思われる。ただし松尾の社会主義像はそれほどクリアではない。指令型計画経済は拒絶され、協同組合企業をベースとする自由市場経済がイメージされているようだが、協同組合の株式会社企業に比べたときの劣位性はつとに指摘されている。(組合員一人一票の協同組合のガバナンスは一株一票の株式会社に比べ大体において非効率的である、と予想される。)

 私見では社会主義は資本主義の後に来る歴史的段階とも、あるいはまた資本主義に対するオルタナティブとも考えられるべきではない。市場の失敗、とりわけ外部性に対処するための工夫であり、資本主義を補完するものと考える方がまだしもではないか。
 たとえば資本市場の不完全性・不完備性によって、富の分配の不平等が克服されずにいる場合、不確実性の度合があまりにも高い場合には、市場を無理やりに創設するより、単純に政策的な所得移転を通じて富を再分配した方が効率的である場合がありうる。