アベノミクスについて今更の覚書

 いうところのアベノミクスの基本的な正しさについて考えてみよう。正しいと考えない人は、どのような条件の下でそれが正しいのか、について考えるというところで妥協してみればとりあえずは同じことだ。そのあとでその条件が実際に満たされているかどうか、改めて考えてみればよい。
 基本的な前提としては、「失われた20年」下の日本経済は不完全雇用で、潜在GDPが百パーセント実現されておらず、大きなGDPギャップを抱えていた、というあたりにある。厄介なことに統計上の失業率とGDPギャップ(と潜在GDPの比率)とは完全には一致しない。不況が長く続くと本来就業意欲があった人までも求職意欲を失い、労働市場から撤退してしまう。このような人の労働能力による生産への寄与の可能性ももちろん、潜在GDPの一部をなす。だからその推計は難しい。
 だからアベノミクス以降の雇用の改善は、失業率の改善だけから見ると過小評価になってしまうので、労働統計に限っても求人倍率の変化とかほかの数値を見ていかねばならない。むろんほかにも株価の上昇率やなによりGDPの成長率が重要ではあるが、GDP成長率だけを眺めていても、その原因が何なのかはそれだけからはわからない。つまり、日本経済において仮に完全雇用が維持されていたという前提をとるならば、GDPの成長のあらかたは潜在GDPそのものの成長によるものだということになる。しかしそうではなく、不完全雇用の改善が生じているならば、それは潜在GDPそのものの成長のみならず、失業者や遊休設備などの実現されていなかった生産力が雇用されるようになったことによる。
 経済学の基本的知識をある程度かじった人が「経済を成長させる」という政策提言に対して不信感を持つことにはむろん理由がある。結局のところそれはスミスの「見えざる手」の教説であり、意図的に成長産業を予測し、技術革新を引き起こすことなど普通はできない。その意味での――つまり経済全体の生産性を上げる、潜在GDPを上げる成長政策に対して懐疑的になるのは正しい。しかしながらこの批判が当てはまるのは(今や昔懐かしいフレーズとなった)アベノミクス三本の矢の内の三本目にしか当たらない。第一、第二の矢はそうではなく、潜在GDPの実現、顕在化、つまりは完全雇用の達成に眼目がある。こちらに対しては「見えざる手」批判は当たらない。
 とはいえ1970〜80年代のスタグフレーションと、その後のケインズ経済学の凋落の記憶を残している方が、そのような完全雇用政策の意義に懐疑的になるのもわからないではない。ケインジアンが説くような有効需要不足による不完全雇用があったとして、それは言うほど簡単に財政金融政策によって改善可能なのか、またそもそも不完全雇用なんて本当にあるのか、市場メカニズムがはたらいている以上、実は経済は常におおむね完全雇用状態にあって、そのレベル自体が上下動しているのではないのか(いわゆる実物的景気循環理論の考え方)、といった疑問をお持ちの方がいても、仕方はない。
 また現下のケインジアンの多くが、まさにかつてケインズを批判していたはずのミルトン・フリードマンを高く評価し、一見素人目にはフリードマンマネタリズムと区別がつかない(実際無関係ではない)貨幣政策、金融政策を重視し、元祖たるケインズが強調していた財政政策については相対的に不熱心に見えることも、少しばかり記憶力のよい方には気になるところだろう。
 このあたりの細かい論点については別の機会に語るとして、とりあえずここでは不完全雇用はあり得て、実際ここ20年の日本は不完全雇用基調だった、という事実判断に立つ。そのような前提を置くならば、ケインズ政策は、仮にそれが実行可能だとすれば、有効需要不足を改善して、潜在GDPの実現に向けてプラスの貢献ができるはずだ、ということになる。
 第二次安倍政権以降、とりわけ黒田日銀以降の「異次元緩和」のもとでの経済指標の動向は、おおむねこの認識を裏付けるものが多い。ただ、当初公約にあったインフレーションターゲット、インフレ率2パーセントの達成については、未達成のままであり、その一点が気になる向きも少なくないようだ。
 この物価上昇を目標とするという政策は、少なくとも「見えざる手」と「ケインズ政策の凋落」程度のことについては頭に入っている人々にとっては、非常に気持ちが悪いものである。つまり「物価上昇は景気の改善(完全雇用の達成もその一部)の結果であって原因ではない。目標はあくまで景気の改善であるのだから、物価上昇を目的とするのは本末転倒である。それが景気の改善を結果としてもたらす原因だとは考えられない」という反発を招いているのではないか。
 たしかに物価上昇率、インフレ率と失業率との関係、いわゆるフィリップス曲線とはとりあえずは経験的な関係であり、その背後の因果関係を解明するための理論モデルは複数ありうる。もともとそれは賃金上昇率と失業率の関係から見いだされ、それが賃金上昇率と全体としての物価上昇率との関係、更には失業率と潜在GDPとの関係まで含めて拡大解釈されてきたものだけに話はさらに厄介だ。
 非常に大雑把には、もともとフィリップス曲線労働市場全体の動向を表すものと解釈されてきた。つまりは労働需給がひっ迫し、失業率が下がって完全雇用に近づくと賃金上昇率が上がり、逆に緩んで失業率が上がると賃金は停滞、あるいは下がる、というメカニズムがその背後にある、と。これならば因果関係においてより基底的なのは労働需給の方であり、人為的に賃金を上げ下げして雇用状況をコントロールしようという発想は本末転倒である、という解釈は自然だ。しかしながらことにマクロ経済学のツールとしてのフィリップス曲線において想定されているのは、物価上昇率と失業率、ひいてはその背後のGDPギャップとの関係である。問題はこの場合、先のアナロジーを援用して、「(仮にそれが可能だとして)物価を、インフレを操作して実体経済レベルの雇用をコントロールしようだなんて本末転倒だ」という批判が当然に出てきてしまうということだ。だから我々はフィリップス曲線への新たな解釈を提示しなければ、このような批判を抑え込めない。
 一般向けの著作でこの辺のことをうまく書いてくれているのが飯田泰之マクロ経済学の核心』あたりだと思うので技術的にきちんとした話はそちらにお任せするとして、『不平等との闘い』を踏まえた少し大きな話を「生兵法は怪我の元」とは思うがしてみたい。
 物価をコントロールして実体経済を動かそうという発想は、つまるところ、人々の将来への期待にはたらきかけることによって、現在の実体経済に影響を及ぼそう、というものである。そこには別段、因果関係の取り違えの倒錯はない。
 ケインズが自分の先行者をいわゆる新古典派も古典派もひっくるめて「古典派」呼ばわりしたときには、セー法則、「供給は自らの需要を生む」、つまり市場経済は普通は完全雇用に至る、という発想を共有しているから、というくらいの意味だったが、見ようによってはケインズを含めた新古典派と古典派との違いも非常に大きい。
 ここでは『不平等との闘い』とはまた異なったアングルから見てみよう。長期動学を考えた場合、新古典派においては、むろん有効需要不足の可能性を重く見るケインジアンと、基本的に需給は均衡すると考えるそれ以外の違いは無視できないとしても、あえて言えば需要が供給を決定する、という解釈の方がわかりやすい。そもそも需要の中の主要項目が貯蓄=投資であり、それは結局未来の予想、将来への期待、将来の生活設計、生産計画によって決まる。つまりは将来への期待が、現在における需要を、そして供給≒生産力を決める。
 それに対して古典派の場合には、貯蓄=投資は現在における生産の中から、現在における消費分が差し引かれた残りによって決まる、という解釈が勝っている。それはマルクスによる古典派批判の論点のひとつであったいわゆる「賃金基金」説などに表れている。そこでは、ある時点における労働者に対して与えられる賃金の総額(≒一人当たり賃金×労働需要)は、それに先立ち、労働者を雇用するために用意された資本の総額と等しい、ゆえに組合などによって労働者の交渉力が強くなっても賃上げは不可能である、という教説だった。要するに、そこでは成長の原資となる投資は、現時点の生産の余剰からくるものでしかなく、資本家=企業家のダイナミックな事業計画などは考慮の外に置かれていたのである。
 この「未来(への期待)が現在を決める」という視点なしにいわゆるケインズ政策もそしてマネタリズムも理解できない。中央銀行による金融政策、具体的には利子率のコントロールとより直接的な貨幣供給政策は、短期的に市中に回る流動性を増やすだけではなく、より長期的な期待にはたらきかけることも不可能ではない、というのがある時期以降のクルーグマンのスタンスであり、それが「異次元緩和」にもつながっている。
 さて問題はそれがどの程度の成果を上げたか、であり、結果的に言えばはっきりした持続的インフレを引き起こすほどの期待の変化を引き起こすことには失敗したが、為替を円安に振ったり、株価を上げたり、そしてそれが実物投資を増やして雇用を改善したり、という程度の成果は上げているのだから、インフレの定着には失敗しているとはいえ、無意味だったとは到底いいがたいだろう。
 更に言えば、フィリップス曲線を真に受けるならば、景気を改善しつつもインフレの実現に失敗しているということは、失業率がここからさらに目に見えて下がるかどうかはともかくGDPギャップはまだまだ残っており、完全雇用には遠い、という兆候である。
 フィリップス曲線を真に受けるならば、こういうことになる。実体経済レベルに注目して素朴に考えれば、総需要が総供給を上回ればインフレとなる。インフレ自体が失業率を下げる力はなくとも、需給のひっ迫は失業率を下げる。ゆえにインフレと失業率の間に逆の相関が成り立つ。更に期待にはたらきかける金融政策の観点からすれば、現実のインフレの持続が市場サイドでのインフレ期待の定着に結びつけば、それが実体経済レベルでの需要ひっ迫、そして失業率の原因となる。
 前者の可能性を追うならこうだ。金融緩和の結果投資が活発となり、需給がひっ迫して完全雇用に近づいていはいるのだが、まだインフレになるほどではない、ということだ。もっと完全雇用に近づけばおそらくはやっとインフレになる。そして更に経済が過熱すると完全雇用となり、今度はインフレだけが進行して実体経済レベルの改善がない、という地点に来るだろう。そこで本来の意味での「インフレーション・ターゲティング」、つまり金融引き締めによるインフレ抑制の時機が到来する。しかし今はその時ではない。
 後者の可能性を考えるならば、前者の可能性に加えて、インフレ期待定着自体の実体経済改善効果も考えられることになる。実体経済レベルでの需給ひっ迫による「結果としての」インフレと、金融政策介入による「(実体経済レベルでの需給ひっ迫の)原因となるインフレ」のどちらが前面に出るのかは、この場合でも分岐がありうるだろう。


マクロ経済学の核心 (光文社新書)

マクロ経済学の核心 (光文社新書)

マクロ経済学の核心 (光文社新書)

マクロ経済学の核心 (光文社新書)

追記(7月28日)

 今更ながら因果推論がらみでちょっと補足しておくとあくまで目標は完全雇用であって、インフレはその手段に過ぎない。とはいえ「インフレが雇用を増やす」なんて倒錯した話で因果の逆転、インフレは雇用増の結果、随伴現象では? という疑問がまず生じうる。
 これに対しては、インフレは雇用増が十分か、完全雇用に近づいてるかどうかの指標として使える、という反論が一応可能。ただちょっと複雑で、まずデフレ状態からスタートすると、金融緩和や財政出動で雇用を増やしても、なかなかインフレにはならない。この場合は 失業率や求人倍率などと物価指標を両にらみで、少なくともインフレになるまではまだまだGDPギャップが残り、仮に失業率が低くても潜在失業者はいて雇用は改善できる、と判断する。ではインフレになり始めたらそこで緩和をやめていいか、というとそうはならない。そこからしばらくの間は、インフレと失業率の逆相関、緩和の副作用としてのインフレが発生するものの、本来の目標である雇用増も達成できるというゾーンに入る。それには限界があって、完全雇用に到達すると、雇用は増加しない――失業率も下がらずインフレだけが進行するゾーンに到達する。これがいわゆる「自然失業率」である。どこを「自然失業率」=完全雇用水準とみなすかというときに、雇用の改善を伴わないインフレに到達するとそれだ、と判断するわけである。このようにフィリップス曲線には「水平」「下り坂(原点に向けては上り坂)」「垂直」の三局面があるのに注意がいる。
 つまりこの解釈ではインフレは、それ自体は目標ではないものの、直接測定することが難しいGDPギャップ、潜在失業を推測するための間接的な指標として使われるのである。このオーソドックスな解釈に対してもちろん、インフレ期待そのものに投資、雇用を誘発する因果作用を見出す立場もある。ただ問題はインフレ期待もGDPギャップや潜在失業同様、直接観測することが難しい。通常は、物価連動国債が発行されているときに、ブレークイーブンインフレ率がそこから計算できるので、それでもって期待インフレ率とみなす。
https://t.co/ADHzM0tKnP