柄谷行人新著を久々に手にして

柳田国男論

柳田国男論

 来年の柳田論の前に初期柄谷の柳田論が公刊。ぱらぱらめくって、やはり初期の柄谷はよい、と買ってしまう。
 「序文」にちょっと気になることが書いてある。

 遊動民(ノマド)にはさまざまなタイプがある。大別すれば、遊動的狩猟採集民と遊牧民である。それらはノマドとして同一視されやすいが、根本的に異なる面がある。
 遊牧民は農耕民とはちがって、定住を嫌う。その意味で、遊動的狩猟採集民にあった遊動性を回復している。しかし、彼らは遊動的狩猟採集民とは異質である。牧畜は農耕と同様、定住的社会の中で開発された技術であり、遊牧民は農耕民に依存している。彼らは農耕民と交易するだけでなく、商人として共同体との間の交易をになう。さらに、遊牧民はしばしば結束して農耕民を略奪し征服する。こうして遊牧民は国家を形成してきた。
 ここからふりかえると明らかなのは、1980年代に流行したのが、遊牧民的タイプの遊動論だということである。実際、ドゥルーズガタリがいうノマドジーは、遊牧民にもとづいている。それは脱領域的で闘争的である。それはラディカルに見えるが、資本・国家にとっても好ましいものである。したがって、それは90年代には、新自由主義イデオロギーに取り込まれた。
(5-6頁)


 ここで柄谷はある種の錯誤に陥っているように思われる。ドゥルーズたちが遊牧民をモデルに「ノマド」ならびに「ノマドジー」を構想したのに対して、柄谷はいわばその料簡の狭さを批判して、より射程の広い「ノマド」「ノマドジー」を構想しようとしているようだが、そのモデルとして「遊動的狩猟採集民」(柄谷はそのモデルとして柳田の「山人」概念を使おうとしているようだ)を持ち出すのはいかがなものだろうか? 
 そもそも「遊動的狩猟採集民」は社会理論(実証的社会理論とは言わないまでも、思弁哲学的な社会的存在論)上の概念としてソリッドなものでありうるか? 我々の知る限りでは、生態的ニッチを確立した狩猟採集民は到底「遊動的」ではありえず、農耕民と同程度には定住的な――広大な、しかし特定の地域を、極めて粗放的に利用する――存在である。
 遊牧民は家畜という動産にして固定資本を備えた資本家であり、それに対してプロレタリアートであるような遊動民を構想したいというのが柄谷の希望であるようだが、それはつまりはホモ・サケルということだろう。


 柄谷だけではなく、ドゥルーズガタリにも共有されている軽率さがある。
 柄谷は正しく、柳田のいう「常民」「山人」が実体概念ではなく方法的な、いわば脱構築的な概念であることを強調する。これは『内省と遡行』でマルクスドゥルーズガタリやジェーン・ジェイコブズを援用して特に「交通」を論じる際にも同様だった。しかし既存の理論や思想を批判して脱構築する瞬間はともかく、そこから(柄谷の場合『探究』以降とみに)代替理論を提示していくに際しては、脱構築の武器として用いられていた「交通」が、安易に実体概念に転換し、しかもそのことによって説得力を失っていきはしなかっただろうか? 
 そしてこのような問題は、ドゥルーズガタリがたとえば「スキゾフレニー」「スキゾ分析」とか「ノマドジー」とかいった概念を繰り出した際にも、やはり起きてしまっていたのではないか?
(まあ『世界史の構造』を読んでいないので「遊動民」概念についてはあらぬ誤解をしている可能性もあるのですが。)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

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アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

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千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

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