東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」

フーコーの「ネオリベラリズム」観

 フーコーが「新自由主義古典的自由主義への回帰ではない」と断じる理由について考えるためには、オルドリベラリスムスなど大陸ヨーロッパのそれではなく、アメリカ合衆国、つまりはシカゴ学派経済学についてのフーコーの見解を見るにしくはない。私見ではそれはただ単に「19世紀の古典的自由主義と、20世紀の新自由主義とがいかに異質か」にとどまらず、古典派経済学と新古典派経済学とのあいだに横たわる断絶に対する一つの興味深い解釈である。彼はとりわけ「人的資本」概念を理論経済学における重要概念の地位に押し上げたセオドア・シュルツとゲイリー・ベッカーにとりわけ注目する。
 長くなるが引用してみよう。

 シュルツやベッカーのような人は次のように言います。結局のところ、人々はなぜ労働するのであろうか。彼らが労働するのは、もちろん、賃金を得るためである。ところで、賃金とはいったい何だろうか。賃金とは、所得に他ならない。労働者の視点から言えば、賃金とは、自らの労働力の売値ではなく、所得である、と。ここでアメリ新自由主義者たちは、完全に二十世紀初頭にまで遡るアーヴィング・フィッシャーの古い定義を参照します。フィッシャーは次のように語っていました。所得とは何だろうか。所得をどのように定義する一」とができるだろうか。所得とは、資本による生産物あるいは収益に他ならない。そして逆に、何らかのやり方で未来の所得の源泉でありうるもののすべては「資本」と呼ばれるであろう、と。したがって、ここから出発して、もし賃金とは所得のことであると認めるとするなら、賃金とは資本による所得であるということになります。ところで、賃金という所得をもたらす資本とはいったい何でしょうか。それは、ある人に対してしかじかの賃金を得ることを可能にするような、あらゆる身体的、心理的ファクターの総体です。したがって、労働者の側から見るなら、労働とは、抽象によって労働力とそれが使用される時間とに還元された一つの商品ではありません。労働者の視点から経済学的に分解されるとき、労働に含まれるのはまず、資本です。すなわちそれは、適性、能力であり、彼らの言い方をするなら、「機械」です。そして他方には所得があります。すなわちそれは、賃金、というよりもむしろ賃金の総体であり、彼らの言い方をするなら、賃金の流れです。
 このように労働が資本と所得とに分解されることによって、当然ながら、かなり重要ないくつかの帰結が導かれます。第一に、このように未来の所得つまり賃金を可能にするものとして定義された資本は、おわかりいただけるとおり、事実上それを保持している者から分離することの不可能な資本です。そしてその限りにおいて、それは、他と異なる資本です。労働への適性、能力、何かをなしうる力、こうしたすべてを、能力があり何かをなしうる人から切り離すことはできません。別の言い方をするなら、労働者の能力は確かに一つの機械であるとはいえ、それは労働者自身から切り離すことのできない機械であるということです。これは必ずしも、経済学的、社会学的、心理学的な批判が伝統的に[それを]語ってきたように、資本主義は労働者を機械に変えてしまい、その結果労働者を疎外してしまう、という意味ではありません。そうではなくて、次のように考えなければなりません。すなわち、労働者と一体をなすものとしての能力という側面において、労働者はいわば一つの機械である、ただしそれは、そのポジティヴな意味において理解された機械である、というのもそれは、所得の流れを生じさせることになる機械であるからだ、と。所得の流れを生じさせるのであり、所得を生じさせるのではありません。というのも、まさしく、労働者の能力によって構成された機械は、労働市場において一定の賃金と引き換えに単発的なやり方で売られるわけではないからです。実際にはこの機械は、その寿命、その耐用期間を持ち、旧式化したり老化したりします。したがって労働者の能力によって構成された機械、能力と労働者とがいわば分離不可能なやり方で結びつくことによって構成された機械、これを、ある期間のあいだに一連の賃金を報酬として支払われることになるような機械とみなさなければなりません。つまり、最も単純なケースを考えるなら、そうした機械が使用され始めるときには比較的低い賃金から始まり、次いでそれが上昇し、それから構械の旧式化あるいは機械としての労働者の老化に伴ってそれが下降することになるということです.したがって、新経済学者たちによれば――こうしたすべてはシュ
ルツのなかにあるはずです――そのような総体を、機械と流れから成る複合体のようなものとみなさなければなりません。機械と流れから成る総体というこのような考え方は、おわかりいただけるとおり、一つの企業に投資される資本に対し市場価格で売られるべきものとしての労働力という考え方の、完全なる対極にあります。それは、労働力という考え方ではなく、能力資本という考え方です。この能力資本が、多様な可変項に応じて賃金としての所得、賃金所得を受け取るとされるのであり、その結果、労働者自身が、自分自身にとっての一種の企業として現れます。そしておわかりいただけるとおり、極限にまで押し進められたかたちでここにあるのは、ドイツ新自由主義のなかに、そしてある程度までフランス新自由主義のなかに見られるものとして私がみなさんにすでに指摘しておいたあの要素です。すなわち、経済分析は、個人やプロセスやメカニズムよりもむしろ企業という要素をその解読基盤としなければならない、というあの考えが、ここに見いだされるということです。企業という単位から成る経済。企業という単位から成る社会。これこそが、自由主義に結びついた解読原理であると同時に、自由主義による社会と経済の合理化のためのプログラムなのです。
 こうした状況において新自由主義は、伝統的に言われているとおり、ある意味においてホモ・エコノミクスヘの回帰として現れるように思われます。それは確かにそのとおりなのですが、しかしおわかりいただけるとおり、そこには大きなずれがもたらされています。実際、ホモ・エコノミクスについての古典的な考え方においてこの経済的人間とはいったい何のことでしょうか。それは、交換する人間であり、交換相手であり、交換のプロセスにおける二人の交換相手のうちの一人です。そして交換相手としてのこのホモ・エコノミクスはもちろん、それがどのようなものであるかについての分析を含意しています。そこに含意されているのは、有用性という観点から行動様式や振舞い方を解体することであり、これはもちろん、必要の問題系にかかわるものです。というのも、必要から出発してこそ、交換のプロセスを導くことになる有用性が特徴づけられたり、規定されたり、基礎づけられたりすることが可能となるからです。交換相手としてのホモ・エコノミクス、必要の問題系から出発した有用性の理論。これが、ホモ・エコノミクスの古典的な考え方を特徴づけるものです。
 新自由主義においても――新自由主義はそのことを認め、公言しています――確かにホモ・エコノミクスの理論が見いだされますが、しかしそこでのホモ・エコノミクスとは、交換相手のことでは全くありません。ホモ・エコノミクス、それは、企業家であり、自分自身の企業家です。そしてそれだからこそ、交換相手としてのホモ・エコノミクスを、自分自身の企業家としてのホモ・エコノミクスによって絶えず置き換えることが、事実上、新自由主義によって行われるあらゆる分析に賭けられるものとなります。自分自身に対する自分自身の資本、自分自身にとっての自分自身の生産者、自分自身にとっての[自分の]所得の源泉としてのホモ・エコノミクス。そして、長くなってしまうのでここで詳しく述べるつもりはありませんが、ゲーリー・ベッカーのなかに、消費に関する非常に興味深い理論が見いだされます。ベッカーは次のように述べます。消費について、それをただ単に、交換のプロセスにおいていくつかの生産物を獲得するために購買を行い通貨の交換を行うことであるなどと考えては決してならない。消費する人間、それは、交換における諸項のうちの一つではない。消費する人間は、消費する限りにおいて、生産者である。では彼はいったい何を生産するのか。彼が生産するのは、自分自身の満足に他ならない。そして消費を、企業活動のようなものとみなさなければならない。そうした企業活動としての消費によって、個人は、自分が自由にできるある種の資本から出発しつつ、自分自身の満足となるような何かを生産することになるのだ、と。消費者であると同時に生産者である者についての、生産者であると同時に消費者である限りにおいていわば自分白身との関係において分割された者についての、何度も繰り返しなされてきた古典的な理論や分析、大衆消費についてのあらゆる社会学的分析(というのもそれは決して経済分析ではなかったからです)、こうしたすべては、生産活動という観点からの新自由主義的な消費の分析との関係においては、その効力を失い、何の価値も持ちません。つまり、経済活動の分析格子としてのホモ・エコノミクスという考えへの回帰が確かにあるとはいえ、ホモ。エコ
ノミクスについての考え方がここでは完全に変化しているということです。
 したがって次のような考えに到達します。賃金とは、ある種の資本に対して割り当てられた報酬、所得に他ならない。そしてある種の資本とは、人的資本と呼ばれることになる資本である、というのも、賃金をその所得とする能力機械は、その保持者としての個人から切り離すことはできないからだ、と。では、この資本はいったい何からできているのでしょうか。そしてここにおいて、経済分析の領野への労働の再導入は、一種の加速ないし拡張によって、それまで経済分析から完全に逃れていた諸要素に関する経済分析をついに可能にすることになります。別の言い方をしましょう。新自由主義者たちは次のように言います。労働は、正当な権利として経済分析の一部をなしてきた。しかし、これまでになされてきたようなものとしての古典派経済学の分析は、労働というこの要素を引き受けることができなかった。よろしい。我々がそれを引き受けることにしよう、と。そして、彼らがそれを引き受けるとき以来、そして私が今ご紹介したような観点からそれを引き受けるとき以来、彼らは、この人的資本が構成ざれ蓄積されるやり方を研究するようになります。そしてこれによって彼らは、経済分析を、全く新しい領野、領域に適用することができるようになるのです。
(『生政治の誕生』275-279頁)

 言われていること自体はそれほど難解なことではないが、整理が必要だろう。ホモ・エコノミクスが交換の主体から企業家へと変容したとは、つまりはどういうことなのか? ここでは所有論という解読格子を用いてみることによって、フーコーが見たホモ・エコノミクス概念の転換について整理してみることにしよう。

 通常我々は所有される対象の中に、自己の身体を含めては考えない。例えば現行の日本の法律でも、ある人の身体は国を含めた他者の財産ではないことはもちろんだが、それでは当人の財産かというと必ずしも定かではない。(たとえばある人の死後、その身体=死体がその人の相続人の財産となるかというと、そんなことはない。長谷部恭男「憲法学から見た生命倫理」『憲法の理性』東京大学出版会、参照。)身体の一部であれば、ある程度はその人の財産として扱われることもあると言えそうだが、その「程度」が必ずしも定かではない。少なくとも身体丸ごと全部については、その当人のであれたの誰のであれ、財産として扱われることは――少なくとも奴隷制が禁じられているところでは――ない。
 それゆえ我々は、少なくとも奴隷制がない世界においては、人の身体を、財産とはされ得ない――されてはならないものとして位置づけることができる。それ以外の、人の身体以外のものたちは、所有されうるもの、誰かの財産となりうるものということになる。ではここで人、自然人以外に財産権の主体となりうるもの、つまり「法人」はどのような位置づけになるか? 現代社会における典型的な法人とは何らかの団体、組織のことであるが、はたして法人に身体はあるといえるのだろうか? ここでは暫定的に「ない」としておこう。というより少なくとも当面「身体とは自然人の身体以外にはない」としておく。さてそれでは、自然人(の身体)は(少なくともその全体としては)所有の対象とはならないとして、法人はどうだろうか? 株式会社の例などを考えれば、「なりうる」としておくべきだろう。
 それでは何かを所有するとは、より一般的に財産権とは、それを行使するとはどういうことだろうか? それは人(自然人と法人)があるものに対して、普通は排他的な支配権(使用し、コントロールし、処分する権利)と、そこからの利益を得る権利(残余請求権)とを保持する、ということだろう。もちろん個別具体的にはさまざまな制限が課されるが、それでも残余請求権は通常、最後まで残される。人が己の身体とはイコールではないとして――自然人の場合は疑問が残る(霊魂説を想定しないと合理的とは言い難い)が、法人ならそもそも身体がないと考えうるので問題なしである――、己の身体以外の、世界の中のものと、ある密接な関係を取り結ぶこと、それが所有であるということになる。ここでは所有とは、何かほかのカテゴリーに還元しがたい、原始性を保持する。
 ――しかし以上のような所有論に対しては、有力なライバルが存在している。それはジョン・ロックの系譜に連なる議論である。そこでは所有の典型は、人の自己の身体に対する関係である、とされる。所有のパラダイム、プロトタイプは身体なのだ。この考え方からすれば、何かを所有するということは、一時的にであれ、あるものを自分の身体に付け加える、身体の一部となす、身体に取り込む、ということである。この場合身体とはすなわち財産、ある人(法人を含む)の財産の集積のことであり、自然人の財産ではその中の例外的に特異な存在、譲渡不能、移転不能な特殊な財産であるということになる。
 シカゴ学派以降の「人的資本」は、この後者の枠組みの中にすんなりと入る。この世界では人とものとの中間で不安定に揺れる二つのもの――「自然人の身体」と「法人」とが安定した地位を得る。そこでは自然人とは、譲渡不能の特殊な財産=自然人としての身体を有する特殊な法人のことである。そしておそらくフーコーはこうした身体・財産観の転回を、大陸の新自由主義の背後にも見て取っている。