『最終批評神話』の人からのご批判

http://d.hatena.ne.jp/BST-72-Chihaya/20090218/1234970578
 いろいろあるようだけど――


*『ひぐらし』と『Fate/stay night』の違い、ことに前者は中途エンドは全てバッドだが後者はそうではないという指摘はその通り。前者では主人公のアイデンティティは分岐せずに継続している(記憶も持ち越されるんだっけ? やってないけど)が、後者は分岐しており、物語の統合は読み手の側でのみ行われる。この違いは無視してよいものではなかろう。ご教示に感謝します。


*『Fate/stay night』が物語として破綻している、というのは言いすぎで、「出来が悪い」程度に止めておくべきかもしれない。しかし第三ルートが詰め込みすぎで非常に完成度が低いというのは厳然たる事実で、いくら言い募ろうとどうしようもない。この点は
http://www.green.dti.ne.jp/microkosmos/comic_book/fate.html
http://pasteltown.sakura.ne.jp/akane/games/impression/fate.htm
http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/column74.htm
の議論で問題ないと思う。
 もちろん『エヴァンゲリオン』は物語としてはもう完全に破綻している。旧劇場版でさえ十分にその傷を補修したとは言えない。せいぜい気分としてケリをつけただけだ。物語的な破綻を救ったのはむしろいくつかのファンフィクションの方である、という点については全く譲るつもりはない。「あの終わりこそが最も完成している」などという詭弁につきあうつもりは全くない。


*「長谷川裕一をダシにして『Fate』を貶めるな」というお叱りについては、貶めたつもりは毛頭ない。別にぼくは「長谷川裕一がマイナーで『Fate』がメジャーなのはけしからん」と言いたいのではない。別に『Fate』好きな人が長谷川裕一のことなど知らなくてもかまわない。エンターテインメントというのはそういうもの、「売れたもん勝ち」で結構である。
 言いたかったのは「批評をうんぬんする以上、『Fate/stay night』を論じる際に『クロノアイズ』『グランサー』を無視するのはアンフェアで恥ずかしい」ということである。(「『Fate/stay night』が恥ずかしいパクリだ」とまで言うのは厳しすぎるだろう。)批評や研究は、作品を客観的に世界の中に位置付けなければならないのだから。


*独断的な感想だけ言えば、「『Fate/stay night』は面白いエンターテインメントではあろうが、『ナウシカ』『マップス』『クロノアイズ』『エヴァンゲリオン』にはあったような偉大さを欠いている」と思う。ここでいう「偉大さ」とは、もちろん物語的完成度とイコールではない。『エヴァ』も『ナウシカ』もその点ではめちゃめちゃである。ただ、受け手の想像力とか感性とかを揺さぶり、変容させてしまうような力が、これらの作品にはある。『Fate/stay night』にはそういうものはない。
 しかし『Fate/stay night』は正しい娯楽、エンターテインメントだとは思う。ここでいう正しさとは「批評を必要とせず自立している」くらいの意味だ。『ナウシカ』とか『エヴァ』は批評を(どちらかというと)必要としてしまっており、むしろそれはこれらの作品の欠点でさえある。長谷川作品には批評は不要だろうが、紹介は必要だろう(残念なことに)。
 だから『Fate/stay night』の正しい生産的な楽しみ方というのは、それこそほのぼの日常系ファンフィクションのように、キャラ萌え、キャラクターたちをひたすら愛でることに他ならない、と思う。その作品の力は物語にではなく、いわんや世界観にでもなく、キャラの立ち具合にこそある。力強い批評とファンフィクションをものしたmicrokosmos氏にせよ、根本的な動機としては要するに「セイバーがかわいくて仕方がない」ということでしょう。別にそれでいいじゃん。難しいこと言わんでも。もちろん言ってもいいんだけど、それは「私的な楽しみ」にすぎない。


*あんまり関係ないことなのでついでに言えば、碇シンジにせよ衛宮士郎にせよ、「作者自身によって誤解されたキャラクター」ではなかろうか。どちらも物語中でさんざん「いびつな、どこかおかしい人間」とされるが、別にそれほどおかしなやつではないのではないか。シンジ程度の暗さや自罰的性格は別段異常ではない。おそらくはまんが版、貞本エヴァにおける微妙に性格の異なったシンジの造形は、その辺のことを意識していると思う。またmicrokosmos氏の指摘通り、士郎程度の利他性、無私性も別段異常なことではなかろう。
 あとはシンジも士郎も家事に長けているという設定はなかなかに味わい深い。作中で料理をする彼らの描写から伝わってしまうのは、むしろ彼らの本質的な健全さである。


*『Fate/stay night』における――作者の、とは言うまい、士郎を取り巻く大人たち(ことに切継と言峰)が口にする――非常に幼稚で浅薄で子供だましの正義論について付言する。そこでは、正義と幸福、公益と私益をいたずらに対立させられていることだけが問題なのではない。全般的にそこで語られているのはゼロサム的な世界観である。「正義の味方には倒すべき悪が必要だ」「誰かを利するには誰かを犠牲にせねばならない」等々。そうではなく、極力ゼロサム的な状況を作らないようにすることこそがずっと重要である。しかしそのことは作中でついには語られない。ただわずかな予感のみがある――士郎が料理上手であること。そして魔術においても「創る人」であること。

追記(2月20日

 つうかあれだ、みんな命があってご飯が食べられれば後のことはどうでもいい、というか好きにすればいい、というのは実社会に対してのみならず虚構内世界についてさえ思ってしまうのです私は。悩めるのも命あればこそ。