日本の労使関係論をめぐりコピペ

氏原熟練論の継承としての小池「知的熟練」論

 戦後日本の労働調査の中心となったのは,大河内一男隅谷三喜男,氏原正治郎を代表とするグループであった。内部にさまざまな見解の違いをはらみつつも,このグループは,敗戦直後からじつに精力的に実態調査を積み重ねてきた。その主要なものは『戦後日本の労働調査』(労働調査論研究会[1970])にまとめられている。
今日から見て注目されるのは,内部労働市場という言葉こそ使用されていないものの,このグループはすでに内部労働市場についての詳細な調査をおこなっていたことである。その代表的調査は『労働組合の構造と機能――職場組織の実態分析――』(大河内/氏原/藤田[1959])である。この調査の問題関心は,労働組合活動が草の根の職場で空洞化しているのではないか,労働組合の職場闘争にどのような可能性があるのか,という点にあった。この問題に解答するためには,そもそも生産職場はどのような原理にもとづいて秩序づけられているのかが明らかにされなければならなかった。そのため,この調査は詳細な生産職場調査になったのである。
 この調査の基礎となっていたのは氏原の熟練論であった。氏原は明確な熟練概念をもっていた(氏原[1966]『日本労働問題研究』第3部第1章,初出は1953年)。それは,戦前日本における親方労働者である。親方労働者は手工的万能的熟練の保持者で,かつみずから職工を雇用し管理する労務管理者でもあった。氏原にとって親方労働者は熟練の「原型」であった。しかし,この手工的万能的熟練は技術革新によって解体していく。それは,「トレイドからジョッブへ」という過程であると理解された。
 しかし,問題はこの「トレイドからジョッブへ」というシェーマにあった。氏原は,「トレイド」が解体した後どのような「ジョッブ」がでてくるのかを明確にしなかった。「ジョッブ」が明確にならないかぎり,このシェーマは単に「トレイド」が解体すると言っているにすぎない。それにもかかわらず,「トレイドからジョッブへ」というシェーマによって何事かが語られたと思いこまれてしまったのである。この氏原熟練論の負の側面は誰にも気づかれなかった。
 氏原熟練論は,1930年代前半生まれの一群の労働研究者によって継承された。この世代のなかで労働市場研究をフィールドとしたのは山本潔であった。山本は,「独占資本段階における労働力の基本存在形態を半熟練労働力と規定」した。「半熟練労働力」とは,「労働者の担う熟練が,国民的学校教育を前提とし,個別の独占企業に雇用され,企業内で一定期間の技術教育を受け,当該企業での経験をつむにしたがって,よりやさしい職務からより難しい職務へと昇進することによって,養成されるような労働力」(山本[1967]『日本労働市場の構造』29)である。この定義によれば,何年もかかって技能を身につけて一人前になる専門工も,単純な繰り返し作業を何年もおこなう,直接生産労働者も,等しく「半熟練労働者」ということになる。熟練概念はもはや無規定的である。こうした熟練理解は,この世代全体に共通していた。1930年代前半世代は否定的側面を含めて氏原熟練論を継承したのである。そして,1932年生まれの小池もこの世代に属していた。
 1930年代前半世代の多くは,60年代末に,労働運動論,労働争議論へと移っていった。彼らが研究対象を転換していった社会的背景は,60年代末における社会変革への期待であった。しかし,この転換は,氏原熟練論を批判的に検討した上でおこなわれたのではない。氏原熟練論は正しいのであるが,それが労使関係論にとって,あるいは労働運動論にとって直接の有用性をもたないとして,脇に置いただけであった。
 1930年代前半世代から強い影響を受けながら70年代に研究者として自立していった一群の労働研究者がいる。1950年前後に生まれた世代である。この世代が研究をはじめた時点では,1930年代前半世代はすでに労資関係論,労働争議論に転換していた。また,1950年前後世代は大学闘争や高校闘争を経験した世代でもあり,労資関係論,労働運動論,労働争議論にはじめから親和的であった。そのさい,この世代も,明示的ではなかったが,氏原熟練論をそのままひきついだ。熟練論を基礎に研究をとりまとめた者はいなかったが,氏原熟練論は,やはり共通の財産であった。
 70年代末から80年代にかけて,研究の社会的背景が大きく変化した。社会変革の期待は消えていった。日本社会にナショナリズムが急速に台頭し,日本企業は世界市場での競争力を謳歌した。社会変革を期待する労資関係論,労働争議論はこの社会的背景の変化のなかで,次第に魅力を失っていった。
 30年代前半世代のなかでほとんどただ一人,60年代後半から70年代に労資関係論や労働運動論に関心を移さず,氏原熟練論にもとづいて調査を続けてきた研究者がいた。小池である。小池はその成果を1977年にとりまとめた。彼が1977年という時点で書物を公刊したのは,結果的に見れば,絶妙のタイミングであった。第1次石油危機によって他の先進国が深刻な経済不況におちいっている時,日本経済は急速に回復しつつあった。日本社会は,経済の「良好なパフォーマンス」に大きな自信を持ちはじめた矢先であった。まさにその時に小池は「わが国の労資関係は,現代ではむしろ最も「先進的」といわねばなるまい」(小池[1977]『職場の労働組合と参加』240)と言い放ったのである。
 熟練論を基礎として日本の「先進」性を説く小池の本が大きな話題となったことは,それまで脇に置かれていた氏原熟練論に再びスポットライトがあたることを意味した。氏原熟練論は共通財産であったため,小池の主張を批判できる労働研究者はいなかった。
 そのことを端的に示しているのが,山本潔による小池のこの書物にたいする書評である。「通読して強く感じるのは,一貫した著者の実証的研究精神であり,また逆に,従来の“日本的労資関係論”における実証的研究態度の脆弱性についてである。本書の分析の枠組みに賛成するか否か,また,ここの結論命題に賛成するか否かにかかわらず,今後のアメリカ労資関係研究は,そしてまた日本労資関係研究は,本書に示された実証的研究水準の高さにまなぶことなしには,前進しえないであろう」(山本[1978]「書評 小池和男『職場の労働組合と参加』」社会政策学会年報第22集202)。この時期の山本は,日本企業論,労資関係論において小池とは対極の立場にあった。その山本がこのように絶賛に近い評価をおこなったのは,山本も小池も氏原熟練論を共有していたからにほかならない。それは一人山本に限らず,30年代前半世代全体がそうであり,またそれに影響された1950年前後世代についてもそうであった。小池熟練論がそのコアにおいて氏原熟練論である以上,日本企業を賛美する小池理論に疑念を持っていた批判者も,小池熟練論そのものを批判することはできなかった。
 小池の叙述スタイルについて付け加えておけば,60年代までは小池は先行研究に言及し,それと自説との異同をきちんと明示していた。しかし70年代以降,小池は先行研究や研究史に言及することなく,「通説」はこれこれであるが私の実態調査によれば「通説」は間違っている,という叙述スタイルをとり続けた。これは,「通説」なるものを恣意的につくりあげ,かつ自身の調査のオリジナリティをアピールする巧みな叙述スタイルであった。だがこれは,言うまでもなく,研究史にアンフェアな態度であった。研究史に言及しない小池のこうした叙述スタイルのため,小池熟練論のコアが氏原熟練論であることは隠されていた。
(野村正實「労働市場」『大原社会問題研究所雑誌』No.500/2000.7、19-21)

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/500/500-3.pdf


 いま一つ隠された契機としての「段階論」。66年の『賃金』において明示されたのち小池は段階論についてほぼ語らず、91年の『仕事の経済学』において久しぶりに言及する。


日本の労働研究―その負の遺産 (MINERVA人文・社会科学叢書)

日本の労働研究―その負の遺産 (MINERVA人文・社会科学叢書)

労使関係史の解体

 労資(使)関係史研究は資本蓄積構造を労資(使)関係の側面から照射するという問題認識に支えられてきた。その結果,資本蓄積の基軸と位置付けられた重工業部門がそのまま労(使)資関係の基軸へと横滑りさせられ,研究の関心の焦点となる傾向があった。後述するが,量的には重工業部門の労働者を凌駕していた繊維産業の女工や独特な労働秩序を保持していた鉱山・炭鉱の鉱夫に関する研究は,日本資本主義の構造に規定されて労資関係が帯びた「前近代的」性格を代表するという観点のみから長い間取り扱われてきた。それ以外の膨大な労働者群に関する研究は関心を引かず,なされた場合でも労資(使)関係史の中に位置付けられることはなかった。重工業部門の労資(使)関係史においては,労働者の組織形成が労働組合に限定されて取り扱われ,資本主義によるその包摂如何,そしてその包摂の仕方に関心が集中された。そこでは,日本の労働者の組織形成の特徴が日本の社会編成の固有な特質と関わらせて問われることが少なく,欧米の労資(使)関係史の経験を基に構成された資本主義の発達段階に適合した労資関係像との偏差として日本労資(使)関係の特徴が検討される傾向があった。こうした労資関係史研究から,独自の日本資本主義像や日本社会像が生み出されてくるのを期待するのは難しく,そのため,日本の経済や企業経営に対する見方が変化すると,その高度で緻密な実証研究の豊かな成果にもかかわらず,関心を維持することができなかったのであろう。
 佐口和郎:1991『日本における産業民主主義の前提』は,労資(使)関係史の立場から旧来の労資(使)関係史が有したこうた限界を乗り越えようとした試みと評価できる。佐口氏は,現代の「労使関係システム」を産業民主主義と捉えた上で,その変容が迫られている地点に立って,日本におけるその特徴を労使関係史の分析を通して歴史的に解明しようとされた。A.グラムシヘゲモニー論を援用して,同氏は産業民主主義を,「被統治階級」のみでなく「統治階級」にも強いられた「譲歩」の結果諸主体間で「共有されたイデオロギー」とそれに対応する制度により構成されるヘゲモニーと捉え,そのヘゲモニーの形成過程を産業民主主義という労使関係上の普遍的要請と各国の労使関係を律してきた「伝統」との折り合いのつけ方として探求することにより,労資関係の普遍的要素と各国固有の要素との関係を分析するという視角を採用された。その背後には,各主体の「譲歩」により生み出された「共有されたイデオロギー」から労使関係のその後の変容が自由になれないという観点が存在した。こうした視角から,同氏は三井三池炭鉱,呉海軍工廠産業報国運動の深い実証研究を踏まえて,1920年代に生じた日本における産業民主主義の問題が労働者の「人格承認要求」への対応であったため,労使が「人間として同じ」という同質化の論理と労働者の国家への無媒介的依存志向という日本固有の要素を引きずった「人格主義」が,労働者固有の集団的利害を承認した労使懇談制度を伴って産業民主主義を代替するヘゲモニーとして1920年代半ばに形成されたこと,長期戦への労働者の積極的協力を調達するため産業民主主義の克服が課題となった戦時期には,労働者を「勤労」を根拠に人格を承認される存在と位置付け直す,「人格主義」の再編である「勤労」イデオロギーが再編産報(「勤労組織」)と生活給原則を伴って現れたことを主張された。その上で,戦後形成された日本の産業民主主義が「人格主義」から「勤労イデオロギー」へと展開した日本固有の「共有されたイデオロギー」から自由でありえなかったことが展望されたのである。
 佐口氏のこの見解には,「勤労」イデオロギーが「共有されたイデオロギー」としてどれほどの実体を有していたかという批判が存在する。しかし,佐口氏の研究は,日本資本主義の蓄積構造との関連で労資(使)関係史を位置付ける旧来の問題認識から脱却し,労資(使)関係固有の研究領域で提起される問題の解明に労資(使)関係史研究からアプローチする方法を示したものであると位置付けることができる。それは,労資(使)関係史研究が陥っている袋小路を抜け出す道を示唆している。しかし,佐口氏の研究以降,本格的な戦前期労資(使)関係史の研究成果は現れていない。
(市原博「戦前期日本の労働史研究」『大原社会問題研究所雑誌』No.510/2001.5、6-7)

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/510/510-1.pdf


 ここで指摘されている従来型労使関係史とは「蓄積様式」主眼の段階論解釈に、佐口の(そして東條由紀彦の)ヘゲモニー論は「知識社会学」的解釈に対応する。拙稿をも参照。


 40年ほど前の中西は、「終身雇用」や「年功賃金」という「日本的労資関係の原型」の成立は1930年代である、と考えていた。その当時に広く使われていた用語を用いるならば、「国家独占資本主義」の成立とともに「日本的労資関係の原型」も成立する、というのである(中西「いわゆる「日本的労務管理」について」隅谷三喜男編『日本の労使関係』日本評論社、1967年)。しかしその後「原型」ついて、中西は見解を大きく変えた。本書中巻は1983年に公刊されたが、そこで予告された下巻「略目次」によれば、「第4章 三菱長崎造船所の成立 1884-1900年」の第3節は「日本的労資関係の原型」と題されることになっていた。中西は、1900年までに「日本的労資関係の原型」が見られる、と考えていたのである。この「日本的労資関係の原型」の内容は中西が60年代に考えていた「日本的労資関係の原型」と同じ内容なのであろうか。もし同じだとすれば、中西は年功制や終身雇用などの「日本的労務管理」の成立を1930年代から1900年前後までさかのぼらせたことになる。「日本的労資関係の原型」が19世紀末か1930年代かという問題は、たんに「原型」の成立がどこまでさかのぼることができるのかという問題ではない。「日本的労資関係」の成立をどのような論理で説明するのか、という問題である。通説である1920年代成立説は、「独占段階」説であり、資本主義のある一定の発展段階(「独占段階」)になるといずれの国においても、程度の差はあるにしても、いわゆる「日本的労資関係」の特質と考えられている現象が現れる、というものである。すなわち日本特殊性の否定である。中西のかつての「国家独占資本主義」説も、基本的には「独占段階」説と同じ発展段階説である。しかし19世紀末に「日本的労資関係の原型」が成立したとすれば、発展段階説とはまったく別の説明が必要となる。しかし中西は、新しい説明をおこなわなかった。2003年に公刊された下巻において中西は、第4章第3節を「近代的労資関係の構築」と変え、「日本的労資関係の原型」を論じなかった。なぜ節タイトルを変えたのか、中西はなにも述べていない。
 現在の中西が「日本的労資関係の原型」の成立をいつと考えているのかはわからない。論じるべきテーマを論じなかったのであるから、中西は「日本的労資関係の原型」の成立時期と成立論理について確信ある見解を持っていないと考えるべきであろう。そして、「日本的労資関係の原型」の成立時期が確定できない以上、「結語 日本資本主義の特質」は書かれないであろう。
 中西が「結語 日本的労資関係の特質」を書かなかったもうひとつの理由として、中西の「労資関係」の研究方法が指摘されるべきだと思われる。中西の最初のまとまった仕事は、日本の「社会政策・労働問題研究」への厳しい方法的批判であった(中西『日本における「社会政策」・「労働問題」研究』東京大学出版会、1979年)。中西は研究史の批判的検討を通して、正しい方法論として「経営史的分析方法」と「政策論的分析方法」を提唱した。中西によれば、一経営体を対象とした「経営史的分析方法」によって具体の中から特殊と一般を析出できる。しかし「経営史的分析方法」だけでは連続する歴史過程を一義的に切断できないため、国家の労働政策を分析する「政策論的分析方法」が必要になる。こうした中西の方法的提唱は、労働問題研究に反響を呼んだ。しかしこの提唱は、抽象的な次元にとどまっている限りでは無矛盾的に見えるが、具体的分析に適用することが困難である。
 中西が本書の執筆を始めた20年以上前においては、中西はもちろん「経営史的分析方法」と「政策論的分析方法」とが無矛盾的に適用できると考えていた。そのことを端的に示しているのは、上巻と中巻のサブタイトル「長崎造船所とその労資関係:1855-1900年」である。このサブタイトルにある1855 年は、やがて幕営長崎製鉄所の設備となる機械類を幕府がオランダに発注した年であり、ここから長崎造船所の歴史が始まる。それでは分析の終期とされている 1900年はどういう年であろうか。本書を読む限り、1900年の三菱長崎造船所では、特記すべき労資関係上の出来事は存在しない。中西はこの年に「工業会計」が確立したことを指摘している(下、544-55)。しかし、「工業会計」の確立をもって「長崎造船所とその労資関係」の叙述を終了させるのは、あまりにも無理があるし、中西も「工業会計」の確立が画期的であったと強調しているわけではない。1900年が重要である理由は、本書を読んでもわからない。
 中西は三菱長崎造船所の分析から1900年の重要性を見いだしたのではない。中西は、「政策論的分析方法」にもとづいて、1900年に成立した治安警察法を日本資本主義の画期とした(中西「第一次大戦前後の労資関係」隅谷三喜男編『日本労使関係史論』東京大学出版会、1977年)。つまり中西は、本書の執筆を始めた時点では、「経営史的分析方法」にもとづいて叙述をはじめ、「政策論的分析方法」にもとづいて分析を終えることができると考えていた。中西は「経営史的分析方法」と「政策論的分析方法」との予定調和的な一致を信じていたと思われる。しかし、議会において重要な労働立法が成立したことをもって経営史が時期区分されるならば、すべての企業の「労資関係」が、それぞれの経営内事情とは無関係に、1900年で一斉に時期区分されることになる。これは事実上の「経営史的分析方法」の否定であろう。
 中西は下巻の執筆過程において、「経営史的分析方法」ではじめた叙述を「政策論的分析方法」にもとづく時期区分で終えることは無理であると考えた。そのことは下巻のサブタイトル「長崎造船所とその労資関係:1855-1903年」に現れている。すなわち下巻においては分析の終期が1903年とされており、上下巻のサブタイトルの1900年と異なっている。1903年には重要な労働立法はない。中西は労働立法によって時期区分することをやめたのである。「政策論的分析方法」は放棄された。しかしもともと中西は、「経営史的分析方法」では時代区分が一義的にはできないから「政策論的分析方法」が必要である、と主張していた。「政策論的分析方法」を放棄した場合、中西は何を指標として時期区分をするのであろうか。中西はこの問題について答えを出さなかった。それだけではない。中西は時期区分の重要性を否定するかのような見解を書き記すようになった。
 中西は、本書の分析を日清戦争前後で終えるのか、日露戦争前後で終えるべきなのか、と問い、日清戦後は日露戦前であるから時期区分が困難であると書いた後、「そもそも歴史を区切るということは、専ら人為の操作であって、歴史自身の関り知らぬことである」(下、933)と断言している。かつての中西は、「歴史を区切る」という「人為の操作」こそが歴史研究の主たる課題であると主張していた。そのために「政策論的分析方法」を提唱した。中西は、「政策論的分析方法」の放棄とともに、時期区分こそ重要であるというこれまでの主張をも放棄したかのごとくである。
 下巻のサブタイトルによれば、分析の終期は1903年である。中西はなぜ1903年が終期となるのか、説明していない。本文を読むと、1903年に鉄工 900余名による同盟罷工が起きている。三菱長崎造船所の最初のストライキであり、中西はこのストライキを「労資関係」の画期としたようにも見える。しかし中西は、1903年同盟罷工が重要だとは主張していない。4年後の1907年に木工の同盟罷工があり、中西はこのストライキを「歴史の新しい段階への推転を予告するもの」(下、916)と評価している。事実、1907年争議の後、親方請負が廃止され、会社の直接管理となった。したがって、中西の評価にしたがうならば、1907年が時期区分の指標となるべきである。それにもかかわらず中西が説明もなく1903年を分析の終期としたのは、中西の時期区分への関心が低下していることを示している。
 中西が20年前に中巻に引き続いて下巻を公刊していたならば、下巻の内容は相当に異なったものとなっていただろう。そこにおいては「結語 日本資本主義の特質」も書かれ、読者は中西の積極的な主張を聞くことができたであろう。その意味においては、20年の時間はマイナスとなっている。
(野村正實「書評・中西洋『日本近代化の基礎過程』http://www.econ.tohoku.ac.jp/~nomura/periphery.htm#070302


 実証の精度が上がると、「蓄積様式」的段階論だけではなく、「政策論」的段階論もまたリアリティを失う。