塩川伸明先生と梶谷懐氏へのメール

(私的な会話にかかわるところを念のため一部略しました。関係者のご了承があれば復元します。)


前略、塩川先生、梶谷さん


 このたびはやや思慮を欠いた形で御説に言及することとなり、反省しております。
 塩川先生のハスラム評、一読いたしました。ハスラムの本はもちろん、気にはなってはおりましたが、カーをそれほど読み込んでいるわけではない身で読むのもなんとなく気が引けておりましたところにこのご紹介ですから、大いにありがたいものでした。
 丸山との対比は「そう来るか?」という感じで、いまだにピンとこないところがあります。もちろんカーにも丸山にも不案内な私でありますが。水谷三公先生の著書については、「同情的批判」として面白く読めた反面、よくわからないところが多々あります。きつく言うと「東大法学部というインナーサークルのゴシップを、下品な暴露話に堕しきらないように抑制した結果、思わせぶりが目立つ」という感じです。この点まったくの部外者としての竹内洋先生の本は読みやすいものでした。インナーサークルに連なる立場からバランスよく模範的に書かれたのが、苅部直さんの本ということになりましょう。ただどうしても丸山論には、このインナーサークルをめぐるスノビズム(ないしその幻影へのやっかみ)がからんでしまうのが嫌なところです。関係者が全て地面の下に入った次世代にでもならなければ、本当の意味で突き放した理解と共感のバランスをとった研究は出てこないのではないでしょうか。


 昨今の「カー・リバイバル」が「国際政治学」に偏り、「ロシア・ソ連研究」については頬かむりに近い状況である、というご指摘については感じ入りました。個人的に「国際政治学」でいうところの「リアリズム」「リベラリズム」とは何か、を少し勉強しているところでもありましたので。
 ところで、カーが『二〇年』で批判しているユートピアニズムとは「レッセ=フェール」であって、今日的な意味での「リベラリズム」とは異なる、とのご指摘ですが、今日的な意味での「リベラリズム」もまた曲者ではないでしょうか。
 国際政治学の方面では「リベラリズム」、それもよりにもよって「ネオリベラリズム」とよばれる、コヘイン、ナイら合衆国リベラルのコミットする立場は詰まるところ「制度主義」「多国間協調主義」にして「介入主義」ですね。しかしこの立場も経済面に関しては多国間協調による自由貿易体制の維持、グローバル化の推進という点では、カーが批判したウィルソン的ユートピアニズムと目的を共有しているとは言えないでしょうか。
 この考え方にのっとれば、ウィルソンが批判的な意味で「ユートピア主義者」と形容されうるのは「そうしたグローバル経済のメリットは自明であり、それを維持するために多国間の平和な協調体制が敷かれなければならないことも全く自明であり、話せばわかるはずだ」と考えていた?(もちろんこれも批判者からする戯画にすぎないわけですが)からであり、「そうした協調体制の望ましさは必ずしも自明ではなく、それを示すには論証が必要であり、さらにそれを実施する際には戦略が必要である」というのが今日の(国際政治学的な意味での)ネオリベラリストである、とするならば、そこには一定の継承関係がある、と言えるのではないでしょうか。もちろんこの立場はカーをも継承した「リベラルなリアリズム」を自称する
でしょうが。長谷部氏がかつて引き合いに出したフィリップ・バビットなどは、その臆面もないスポークスマンということでしょう。
 そうすると今日のいわゆるネオリアリズムとカーとの関係の方がむしろ気になるところではあります。ただ国際政治学の世界の方では、カーとその辺のアメリ風の国政治学の継承関係については、どれくらい問題意識があるのでしょうか。むしろへドリー・ブルらのいわゆる「英国学派」との関係でみられることもあるのではないでしょうか。


 それにしても、(中略)
 先生のおっしゃるような意味での「知識人」としてのまっとうなあり方は、つまるところ孤立する――「孤立を恐れず」ではなく端的に孤立する、そして超絶的な静寂主義を保つか、あるいはすべての人にうとまれるか恐れられるかあるいは無視される滑稽な預言者となるか、以外にありうるのでしょうか。
 あまりなってみたいものではない――というより、このように描いてみるとそれもまたちょっと滑稽に劇化しすぎではありますが。


 また「スターリニズムの教訓」に忠実であることも、その具体化の作法においてはいく通りものやり方に分かれ、それぞれにそれなりの問題が随伴する、と存じます。おおざっぱにいえば二つの方向がありうるでしょう。ひとつにはあくまでも事実に即して、現場の具体的な声を拾い上げ続ける、というスタンスが当然に成り立ちます。塩川先生自身のご説明においては、このような作法が提示されていたと考えます。
 しかしいま一つ、一見まったく逆のベクトルからのこの「教訓」の継承の作法もありうるのでは、という気もしてならないのです。つまり、一見常識を裏切るような、預言的、神話的後光を伴った個別具体的なエピソードに逆らって、すでに確立されている社会科学的な原理に従い、愚直な原則論を述べ続けることもまた、「スターリニズムの教訓」の継承ではないか、と思っています。
 スターリニズム、と申しますか「現存した社会主義の教訓」については、我々は一面では「情報統制の向こうから漏れてくる赤裸々な事実を「例外」「過渡期の問題」として無視・軽視した」という過ちと同時に、それこそ「「スタハノフ」や「大塞大寨」といった神話的エピソードに幻惑されて、社会科学的原則に忠実に思考しきれなかった」という過ちをともにおかしていた、と言えるのではないでしょうか。
 しかしながらこの両者の過ちをそれぞれ回避しようとすることは、一種のトレードオフ関係にもなりかねないような気がしております。「要はバランスだ」と言ってしまえばそれまでですが、そのバランスを必死に保とうとして結果カーが行き着いたのが晩年の孤立だということなのでしょうか。


 個人的には、当面のところ愚直な原則論者の道を歩みたいものだ、と私自身は考えてはおります。要は「サバルタンは語ることができるか」というたぐいのお話にはもう飽き飽きした、ということです。(もちろん、「具体的な事実に徹すること」イコール「サバルタンにこだわること」などではないのですが。)どんな些細なできごとにも、サバルタン的な契機を見つけ出して、あれこれと理屈をこねまわし、何事かを告発して憂いてみせるというお作法には、個人的にはうんざりだということです。「アポリア」を前に唸ってみせたり、開き直り的にラディカリズムを露出させるよりは、身も蓋もない技術論の肩を持ちたい、ということです。
 たとえば塩川先生が注22であげておられる藤原帰一さんの文章に対しては、私ならこう反論するでしょう――「「中心」の「周縁」に対する態度の類型として、①慈善・社会政策、②管理・統制、③連帯・革命を挙げ、今日では、経済グローバル化に伴う財政上の制約から①が切り縮められ、③は完全に無意味化したとしている。とすると、残るのは②だけということになりそうだ」としてもより管理・統制と悪い管理・統制の違いはあるし、世の中には「自治・自主管理」もある。また①も切り縮められたとしても③ほどは無意味化してはいないし、本当に切り縮められるしかないかどうかは自明ではない。あるいはそもそも③も「自治・自主管理」として②の片棒を担ぐ程度のものに「切り縮め」られるとしたら、十分有意味なものとなりうるだろう――、と。

誠実という悪徳―E.H.カー 1892‐1982

誠実という悪徳―E.H.カー 1892‐1982