アイマスって何? 

って俺が通りますよ、っと。


 いや
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20071109/p1
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060629/p3
の続きなんですが、初音ミク否定派(というと乱暴ですが「単なるDTMの新機軸に過ぎん」というお立場?)の鈴木謙介君に、ミク台風の前提として「アイドルマスター」というものがある、というお話は聞いていたのだが、ちょいと調べるとたしかにこのアイドルマスターはミク同様、というかそれ以上に大変なことになっている。本来この「アイドルマスター」とは育成系ギャルゲーにして音ゲーであるわけだが、そもそも現在のブームはゲーム本体ではなく、ニコニコ動画を主戦場、Youtubeを副戦場として展開されている、ファンがつくるMADビデオの方が主体となっている(ゲームに触ったこともない「見る専」ファンの方が既に量的には凌駕しているはずだし、そもそもMAD製作者の中にさえゲーム本体を持っていない、触ってもいない層が確実に存在する。彼らは他人が作ったMADを素材としてリミックスし、あるいは自分たちで新たに絵を描き起こし、アニメを作り、3Dをいじる)というところが新しい。(もうひとつ気になるのは男女比だ。女性ファンの割合はどれくらいなのだろうか。)
 ええとそれで何が言いたいかと申しますと、このアイドルマスター現象もまたミク現象と同じく、伊藤剛キャラ理論の強力な例証になってくれるんじゃないか、と思うのですよ。音声と少数のイラストイメージしかなかったにもかかわらずファンたちが勝手にキャラを膨らましていったミクと同様、ゲームの公式設定からはるかに離れて暴走的に増幅しているアイマスMADの世界というのは、まさしく「ユーザージェネレイティッドアイドル」というしかないわけだが、その中では、キャラクタたちの内面の掘り下げ、肉付け作業を、元のゲームを超えた域で行っている作品も次第に蓄積されている(ちなみに鈴木君がミクオリジナルソングで例外的に「面白い」といっていたのが、ミクが人間になれないことを嘆く歌だった)。それはまさしく大塚英志的な意味での「まんが・アニメ的リアリズム」である。
 ここで大塚は「まんが・アニメ的キャラクタは本来「内面」「身体」を描くには不向きであるにもかかわらず、ポスト手塚状況ではその無理を通そうとする特異なリアリズムが出現した」と言っているわけだ。それに対して伊藤理論というのは、「そうではなく、かわいらしく記号的に表現された抽象的なキャラにこそ、人は過剰な「内面」「肉体」を読み込んでいくのだ」という仮説であった。
 なぜミクやアイマスが予想外の成功を収め、伊達杏子は歴史のゴミ箱に打ち棄てられようとしているのか? その主因は普通に考えれば、伊達杏子の場合にはあくまでメーカー主導で作りこまれていたのに対して、ミクやアイマスMADにおいてはあくまでユーザー主導でことが運んでいる、ということだ。同様のことはおそらく、マーケティングにおいて当初はなんら積極的な仕掛けを打たなかった初期の『ときめきメモリアル』が大ブレイクしたのに対して、ユーザー統制に神経質になりすぎてあっという間に崩壊した『ときめきメモリアルONLINE』との対比にも当てはまるだろう。そもそも初代『ときメモ』自体、本当にキャラゲー、(あの頃そういう言葉はなかったが)萌えゲーとしてブレイクした(ちなみに火元はニフティサーブだった。私はニフティユーザーではなかったのでその盛り上がりを目撃していない)のかどうか自体、全く定かではない。たしか『超クソゲー』シリーズのどこかに書いてあったと思うのだが、巷の声によると『ときメモ』は基本的には超鬼畜激ムズゲーとしてブレイクしたのであり、落とし辛さ(と性格の悪さ)で知られるメインヒロイン藤崎詩織は、アイドルというより、むしろゲーム史上屈指の極悪ボスキャラ(どこぞの掲示板で無門関をもじった「仏に会っては仏を殺し、藤崎に会っては藤崎を殺し」という迷台詞を見た覚えがある)として遇されていたように記憶している(いや、触ったこともないのに利いた風な口利いて申し訳ないですが。でも他人がGirls Sideプレイしてるのは見たことあるよ。ほとんど全男キャラが爆弾抱えてて=ヒロインに怒りをためていて、傍で見てるだけで胃が痛くなった)。
 ミクやアイマスキャラたちは作りこまれていないからこそ、ユーザーたちにとっていじりがいがある。抽象的であるからこそ逆に、複雑で深いものをその背後に仮想するよう、人々に促すようにできている。つまりはそういうことではないのか。そしてそうした想像力の余地が尽きる頃に、あるいは勘違いしたメーカーが過剰な作りこみで、ユーザーの想像力発揮の余地を自ら削ることによって、ブームは終焉するのだろう。
(なお『ときメモ』は今回のONLINE敗走以外にも、有名な「ときめきメモリアル事件」(大阪地判平成9年11月27日判タ965号253頁、大阪高判平成11年4月27日判時1700号129頁、上告審判決平成11年(受)第955号損害賠償等請求事件、判時1740号78頁
http://www.hanketsu.jiii.or.jp/hanketsu/jsp/hatumeisi/news/200202news.html)でもゲーム産業史に汚点を残していることを指摘しておこう。コナミ大丈夫か。)


 そしてこれと一見関係ない今ひとつの重要なファクターとして、伊達杏子があくまでもオーソドックスなリアリズムを追求していたのにたいして、ミクやアイマスにおいてはまったくそうではない、という対比もまた、大変に興味深い。ミクにおいてはオリジナルデザインは単なるアニメ絵であることはいうまでもないが、アイマスにおいても、恐ろしいほど滑らかに動く3Dアニメーションであるにもかかわらず、その顔はわざと古典的な2次元アニメ風につるつるしている(もちろんこれはアイマスに始まったことではない。たとえば『ときメモ3』)。さてここでオタクたちが伊達杏子ならびにその仲間であるリアル系3Dキャラを忌避、ないしはネタ扱いして、「2.8次元」などと称されるアニメ風キャラを選好するのはなぜか? 要するにみんなロリコンの変態なのか? そうかもしれないが、それだけではないだろう。
 今のところリアリズム志向の3Dキャラクタたちは、認知科学やロボット工学のほうでいう「不気味の谷」を超えられずにいる。普通の意味でリアルになればなるほど、生身の人間にとっては恐怖を、あるいはおかしみを感じさせてしまうのだ。逆にデフォルメされたキャラの方にこそ、ぼくたちはなじみやすさを感じる。このことにはおそらく、認知科学的な根拠がある。例えば「相貌失認」といった症状がある以上、ぼくたちは人間の顔を認知するときに、実はそれをたんなる映像としてではなく、むしろ一連の特徴・パターンの組み合わせ、こういってよければ記号の組み合わせとして認識していると考えた方がよい。(だからこそぼくたちはデフォルメから原型を当てることができる)。デフォルメされたキャラたちは、中途半端にリアルな似姿よりも、ぼくたちの認知メカニズムに訴えることができるのかもしれない。


――と結局『片隅の啓蒙?』でも伊藤キャラ理論に触れられなかった者の負け犬の遠吠えでした。
 ところで『片隅?』ですが、3月初めまでには出るでしょう。主題は結局「公共性論・批判理論の構造転換」という感じ。つまり「ハバーマスの謂う「システム」──そしてまた「道具的合理性」──とやらは藁の犬、というまとめで(http://d.hatena.ne.jp/contractio/20071213/p5)」完全に正しい訳ですが、では道具的理性とコミュニケーション理性の二分法が無意味化するというわけでもない、ではどうなるのか、というお話です。堅そうでしょ。分量的にも前作の倍くらい。


 おまけとして、アイマスMADの現時点での水準を示すと思われる作品を貼っておきます。ある意味「まんが・アニメ的リアリズム」のお手本かもしれない。素材はeastern youth「踵鳴る」。