カーをちょこっとかじっただけで、モーゲンソーもウォルツももちろんミアシャイマーも読んでいないのに、無理矢理リアリズム国際政治学について考えてみるよ。(続々)

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080524

 今一度確認してみたいのだけれど、国際政治学経営学・経済学との間にある並行性とその破れについて図式化すると:


 国際政治学、ことにいわゆる「リアリズム」においては、国家を行為主体とする方法論的個体主義がとられることが多い。ここで仮にオーソドックスなゲーム理論の枠組みを適用すれば、実証分析においてはナッシュ均衡がキー概念になるはずである。しかし規範的分析、政策提言においては話がややこしくなるだろう。実証分析において複数のナッシュ均衡の可能性が見つかったとして、その複数の均衡の間での選択の問題が中心になると思うのだが、ここで均衡選択の基準をどうするのか、が問題である。
 経済学者の場合にはこれを「国際社会厚生関数」の設定の問題と解釈し、どのような基準がよいのか――やれパレート基準だの功利主義だの――について考えるだろう。いわゆる「リベラリズム」の国際政治学の場合も同様だと思われる。しかし「リアリズム」の場合にはどうなのか。そもそも社会厚生関数になど目もくれず、パトロン国家(のモデル内対応項)の効用関数を最大化できる均衡はどれか、だけを考えるという立場がありうるのではないか。というよりここで「国際社会厚生関数」について考えてしまったら、それはもはや「リベラリズム」以外の何物でもないのではないか。
 なおこの「国家エゴイズム丸ごと肯定主義」は狭義の「オフェンシヴ・リアリズム」とはどうも重ならないようだ。ミアシャイマーの教科書の冒頭を立ち読みしたところでは、いわゆる「オフェンシヴ」と「ディフェンシヴ」の違いは、国家の効用関数の設定の違い、リスク回避度の違いというか、前者では国家は普通は覇権獲得を積極的に目指すと考え、後者では生存でとりあえず満足すると考える、という感じらしい。そうすると「オフェンシヴ・リアリズム」兼「リベラリズム」という方法論もありうるのではないか。かなりしんどそうだけど。
 しかしここではあえて乱暴に、「リアリズム」という立場を、単に国家主体をエゴイストと見なして実証分析を行うにとどまらず、規範的分析においても「国際社会の利益」などという観念を無視する立場のことと無理やり定義した上で整理してみよう。そうすると
(以下めんどくさいので「オフェンシヴ」を「攻撃的」、「ディフェンシヴ」を「防御的」とする)

    
                             国家主体の効用関数

                         リスク回避的       リスク愛好的?


             設定する     楽観的リベラリズム   悲観的リベラリズム
国際社会厚生関数
             無視する     防御的リアリズム    攻撃的リアリズム


という感じになるのではないか。


 さてここで経済学・経営学とのアナロジーに移ると、そもそも経済学においては国際政治学における「リアリズム」の居場所がない。経営学においてはありうるが、通常それは「防御的リアリズム」の対応項にとどまる。「攻撃的リアリズム」の対応項は「覇道の奨め」であり、機会主義的行動、独占の奨めになってしまうだろう。
 更にもう一歩アナロジーを進めると、国際政治学における国家主体の相対化、が問題となる。どちらかというとこれについての問題意識はリベラリズム、そしてラディカリズムの国際政治学の方に尖鋭に出てくるが、経済学・経営学においてはどうなるか?
 経済学においては分析単位は目的に応じて適当に取ることができるが、企業組織を主体間相互行為のネットワークとしてとらえる「組織の経済学」の成立は比較的近年のエピソードである。とはいえこの分野の発展は目覚ましく、ミクロ経済学の中心とでもいうべきものになってはいるが。
 経営学においては、組織の環境への適応を論じる「戦略論」と、組織の内部構造、組織と成員との関係を考える「組織論」との区別が明確に成立したのも、比較的近年のエピソードであり、かつ伝統的な経営学はどちらかというと「組織論」に偏っていたように思われる。そして先程来、経営学とリアリズム国際政治学とのアナロジーの可能性について語ってきた際には、主として「戦略論」の方が念頭に置かれていたことは言うまでもない。ただ国家以外の主体を主役とするリアリズム国際政治学を考えることがほぼ不可能であるのに対して、企業、百歩譲って組織を主役としない「戦略論」は可能か、というと、全く不可能なわけではない。個人企業家を主役とする戦略論は「起業論」として成り立ちうるし、必ずしも企業家を主役とせずとも、キャリア・マネジメント論というものもありえなくはない。


 確認すると、ここでいう意味でのリアリズム国際政治学は、まず実証分析のレベルでは、国家主体の相対化の可能性をまじめに考慮する必要をカッコに括ることができる場合にのみ、かつ規範的分析のレベルでは、国際社会厚生関数の必要を考慮の外に置くことによって成り立つ。
 経営学においてはこのような立場はちょっと考えにくい。企業や一般の組織は、実証分析のレベルでいくらでも相対化可能であるのみならず、規範的分析のレベルでのエゴイズムは、限定的にしか肯定されえないだろうからだ。経営学は経済学による下支えがあって初めて成り立ちうる。そうでなければ滑稽なだけだ。
 本当は、ここでいう意味でのリアリズム国際政治学も「滑稽」の一言で片づけたいものなのだが……。


 とりあえず最近の日本語の教科書だけ並べちゃえ。

国際社会の秩序 (シリーズ国際関係論)

国際社会の秩序 (シリーズ国際関係論)

平和と安全保障 (シリーズ国際関係論)

平和と安全保障 (シリーズ国際関係論)

国際政治経済 (シリーズ国際関係論)

国際政治経済 (シリーズ国際関係論)

国家の対外行動 (シリーズ国際関係論 4)

国家の対外行動 (シリーズ国際関係論 4)

国際関係論の系譜 (シリーズ国際関係論)

国際関係論の系譜 (シリーズ国際関係論)

追記

 ラディカル国際政治学の中でも、「ヘゲモニー」論をやっている人たち(ロバート・コックスとか?)は、覇権安定理論のグラムシ的再解釈をして、主として実証分析のレベルで勝負しているわけだけれど、「社会構築主義」を云々している人たちは、国際社会におけるヘゲモニーイデオロギー的側面を重視して、いわば「国際社会厚生関数」をめぐるヘゲモニー争いをそこに見出しているわけだよ。この人たちのやっていることも一種の「相対化」だけれど、その対象に注意しなければならないと思う。下手をすると、リアリズムとの意図せざる結託に踏み込んでしまう可能性もあるのでは。