小泉義之先生のブログを読んでいて

http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071128
 「認知資本主義論」というとてつもなく香ばしい言葉(「知識資本主義論」を更に頭悪くした感じでナイス)が気になったので検索すると
小泉義之「脳の協同 ―ガブリエル・タルド『経済心理学』を導入する」
が出てくる。
 まあ「タルドは(も?)偉かった」ということでよろしいかと存じますが、タルドが偉かったからどうだというのか。「キサマ等のいる場所は我々が100年前に通過した場所だッ! 」って言いたいわけですか? 違いますよね。
 仮にそうだとすると、ここでの「キサマ等」って誰でしょうか? 「認知資本主義論」とやらを提唱するマルチチュード論の方々でかまわないでしょうね。でも「我々」は? 下世話に言えば先駆者タルドはデュルケム派との戦いに敗れて、社会学の歴史上長らく「死んだ犬」扱いだったわけですから、この場合誰も「我々(=タルド嫡流?)」を名乗れないでしょう。「我々」にできることはせいぜい、タルドのイタコになるくらいです。
 それから、ここで紹介されるタルドの議論程度のことならば、イノベーション研究に取り組んできた一部の経済学者、経営学者、法学者等々のあいだでは、既に常識ではないでしょうか? もちろんタルドの先駆性を称揚しても別段かまわない(いや大いにやっていただきたい)のですが、さてタルドはこうしたイノベーション研究に対して「キサマ等のいる場所は我々が100年前に通過した場所だッ! 」と言えるでしょうか? 怪しいですね。この手の研究はすでにそれなりの伝統を蓄積しているからです。普及研究においてはタルドもまた時折言及される古典だったはずです。
 とすると「我々(=タルド嫡流)」って普通の平凡なイノベーション研究者、ってことになるのかしら? 


 やっぱり少なくともこれを「キサマ等のいる場所は我々が100年前に通過した場所だッ! 」とパラフレーズはできませんわね。「キサマ等のいる場所はタルドが100年前に通過した場所だッ! 」ってところかな。それをぼく流に更に言い換えると「キサマ等のいる場所はタルドが100年前に通過し、その後凡庸で批判精神に欠けてしばしば上っ滑りで資本や権力の犬をもつとめたアホも含めた普通の学者たちが地道に踏み固めてきた場所だッ! 」となります。


 ……はあやれやれ同族嫌悪の自己嫌悪。