橋本努『帝国の条件』合評会レジュメ
- 作者: 橋本努
- 出版社/メーカー: 弘文堂
- 発売日: 2007/04/05
- メディア: 単行本
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昨日の合評会(経済理論史研究会@早稲田)で配布したものを貼り付けます。
*総論
いまなおわれわれは「ハーバーマス対ルーマン」という対決構図をよく引き合いに出す。本書を読み私は、この対決に更に第三の挑戦者としてレオ・シュトラウスを引っ張ってこれるだろう、と思った。
ハーバーマスがコミュニケーションの理想を語るのに対してシュトラウスとルーマンは冷淡である。ルーマンは「われわれには時間がないし、それほど賢くもないから、あなたの言う理想には到達できない」と肩をすくめる。シュトラウスは軽くうなずき小声で「だからわれわれは二枚舌を使わねばならない。わかる人にだけわかってもらえればよい」とつぶやく。
しかしハーバーマスの立場は見かけほど素朴なものだろうか? シュトラウスは「わかる人」を選別し、「わかる人」にだけ届くような暗号をきちんと書けるのか? 自分を「わかる人」だと勘違いしたバカをひきつけるだけではないのか? そもそもシュトラウス自身がバカの仲間でないという保証があるのか?
ルーマンはさすがにそのような隙は作らないが、結局彼のいうことは「世の中なるようにしかならん。誤解を通じてでもそれなりに世の中は回っていくものだ」に過ぎないのではないか?
となれば「私が語っているのが理想に過ぎないことは認める。しかし各人が理想に向けて努力することは、たとえその理想が虚だとしても、結果的に各人の間の了解可能性を高めることに貢献してくれると期待できる」とハーバーマスは切り返し、にやりと笑うかもしれない。
それでも多分ルーマンは「各人がそれに向けて努力する無限遠点を、あなたは同じひとつの「理想的発話状況」と想定しているようだけど、そんな保証はないよ」と笑うだろうが。
さて橋本努はどこに切り込む?
*私の考える本書の主たる貢献
・ガートルード・ヒンメルファーブを読め!
・『自然権と歴史』でレオ・シュトラウスを読んだと思うな!
――総じてネオコン研究への手引きとして有意義。
*私の本書への疑義
1 ネオリベラリズム論
本書のネオリベラリズム観(「ブロッケンのお化け」「藁人形」)は基本的に正しいと考える。にもかかわらず著者は藁人形を攻撃する反ネオリベ左翼に対して総じて優しい。
反ネオリベ左翼はネオリベラリズムという悪魔を想定することで生きがいを得ており、またそのような問題意識に基づいて(ネオリベラリズムの、とは言うまい)グローバルな市場経済の展開のもたらす弊害への対処というプラスの貢献をもしているのだから、この欺瞞の収支決算はプラスである、と考えているのだろう。
しかし本当にその収支はプラスか? ありもしない悪魔を想定することで、現状認識をゆがめ、その結果誤った運動方針・政策提言につながっているのではないか?
・ネオコン論については先述のとおりだが、私は今時ネオコンとネオリベを混同する人は少なくなっていると思う。このあたりどうなんでしょうか? 私が甘いのか?
2 帝国論
帝国的リベラリズム、ないし世界政府リベラリズムは本当に可能か? 国際関係論の方では、多国間協調主義を「リベラリズム」と呼んでいることにはそれなりの根拠があるのでは?
もし仮にその外側に「自然状態」がないのであれば、帝国はエクソダスを――分離独立も、亡命も――認められない体制なのではないか? しかし、それらを認めずして「リベラリズム」と呼びうるのか?
世界政府については妥協しても、世界貨幣は拒絶せざるを得ない。それは無茶でしょう。(そもそも地域通貨ブームってどこから来たんだっけ?) cf.マンデルの最適通貨圏理論。
3 段階論
あまりにも安易に段階論的発想に無反省に取り込まれている。それでは反ネオリベ左翼と変わらない。帝国主義段階とかいうな。ポストフォーディズムとか言うな。
(「超」の付く一般論としていえば、「段階論」はアナロジカルにいえばグールドの「断続平衡」説と同型だからドーキンスの批判が適用可能、というかダーウィニストが批判する「種実在論」の時間版に過ぎない。)
・9/11のときにニューヨークにいてとても怖かっただろうことは理解する。しかし9/11以前と以後とで世界は本当に変わったのか。ぼくはそうは思わない。あれはありふれたテロに過ぎない。
4 全能感?
これは感覚の問題かもしれないし、実証的にけりをつけるしかないものなのかもしれないが、そんなに全能感を希求している人々は多くないのではないか。むしろ東浩紀のいう「動物化」の方が私としては気になる。
関連して橋本は「シンボリック・アナリスト」「ボボ」についてずいぶんと期待をこめて語っているが、どうにもひっかかってならない。そんなに大したものか?
ひとつ、「比較生産費説」の教えに従えば、みんなが有能になっても、必ず誰かがつまんなくて儲からない汚れ仕事をやるはずだ。
ひとつ、情報通信革命で一番割を食うのは半端な「シンボリック・アナリスト」である。cf.ポール・クルーグマン「ホワイトカラー真っ青」
*岡田斗司夫『「世界征服」は可能か』との対比
岡田著は、エピローグ手前までは「世界征服は割に合わない、おいしいもの、楽しいものがほしければ、自由な市場経済が一番」と論じる。しかしながら最後に、自由な市場経済の弊害にふれ、それに抵抗し、利他的で有徳な生き方の価値を称揚する。そしてそれこそが今日可能な唯一有意味な「世界征服」である、とまで断じる。なぜならそれは世の中の支配的な価値観に逆らうことだから、と。
それは「正義の味方」「革命」じゃないんですか? と突っ込んでみたくなるが、そこでわれわれは気づく。「革命って世界征服のことだよな?」――となれば岡田の言っていることはそれほど間違ってはいない。また正義の味方とは、結局のところ世界征服をたくらむ悪に対するアンチ、つまりは同じ地平に存在するものに過ぎない。
さてそれと比べたとき、橋本著はどのような構図を提示していることになるのか?
ネオリベという藁人形によって呉越同舟している反ネオリベ左翼マルチチュードは「革命主体」で「正義の味方」なのだが、問題は橋本も認めるとおり、悪のネオリベ世界征服団など存在しない、ということだ。つまり橋本がいう帝国とは、一見したところ悪のネオリベ・対・正義のマルチチュードの闘争のアリーナだが、実際には悪のネオリベ団は不在の中心であり、正義のマルチチュードこそが支えている体制なのである。
ただ橋本も、帝国において、それを自覚的に支える中心が全く不在である(必要ない)とは考えていないであろう。だからこそ「超保守主義」について語るのだ。超保守主義にコミットする人々は、いわば左翼を飼いならす者であり、ときに悪役を引き受け、時に味方になり、という形で左翼のエネルギーを統制しつつ善用しようとする。
――気持ちはわかる、と言いたいがこの構想には危惧を覚える。
ひとつ、人はこの「超保守主義」を実行しうるほどに賢明でありうるのか?
ひとつ、よしんばそうだとしても、そのような欺瞞には重大な問題があるのではないか? そこにシステマティックな欺瞞が継続している限り、それは「リベラリズム」とは呼びがたいのではないか。
またここでネオコンはどう位置づけられるのか? 彼らもまた革命勢力であり、自分たちのなりの正義の味方であるのだから、「超保守主義者」によって飼いならされる対象に過ぎないのか?