エッセイ「市場の「暴走」について」

 お蔵出し。どうせ非商業雑誌だし。




市場の「暴走」について
明治学院大学社会学部付属研究所 研究所年報』36号(2006年3月)掲載

                                  稲葉振一郎

1.
 政治哲学の文脈における「リベラリズム(含むリバタリアニズム)」の社会経済政策面における特徴は、自由な市場経済の肯定である、といってたしかに間違いではない。しかしこれが果たして積極的な市場容認、まさに市場そのものを目的として追求している立場であるかと言うと、「最小国家」を標榜するリバタリアニズムの場合でさえ、必ずしもそうではない。ただリベラリズムリバタリアニズムは、市場に対する消極的な容認(「別にあっても構わないよ、禁止はしないよ」)の下で、結局市場こそがもっとも支配的な、社会的分業の編成システムとなってしまうだろう、と事実判断のレベルで考えているのである。彼らにとっても市場の支配は、まず価値判断の問題というよりは事実判断の問題であり、また事実判断のレベルにおいても、必然ではなく、たかだか蓋然的なこととしてしか考えられてない。
 ただリベラリズムは、この市場の論理の「暴走」をおしとどめ、それに一定の枠を嵌めようとすることはたしかである。そしてリベラリズム一般、穏健なリベラリズムに対する、過激派としてのリバタリアニズムの「わかりやすさ」はその枠を極力ミニマルにしようとするところにあり、そしてより穏健で一般的なリベラリズムの「わかりにくさ」はその枠をいかなる基準で設定するのか、について、結局無原則で恣意的な議論、つまり「市場だけでもダメだけど、国家だけでもダメだから、という折衷主義の域を超えられないところにある。
 もちろんリバタリアニズムの「最小国家(小さな政府)論」(1)もまた本当は恣意的なのだ、ということはできるし言うべきでもある。政府の規模や責任範囲を決めるナショナル・ミニマムが具体的にどのレベルで決まるのか、については「その時その時の状況による」とか言えないのだから(2)。逆に言えば、このミニマム論がそれほど恣意的ではなく、十分に原則的だといいうるのであれば、かのジョン・ロールズの格差原理、マクシミン原理(3)もまた十分に原則的だ、と言っても構わないであろう。
 それにしてもいったい市場の運動が社会を、その中で生きる人々をどのような状況に追い込むならば、それは「暴走」であり、国家の介入によってそれは予防されなければならず、予防し得なかった場合にはその結果起きたことに対して補償を行わねばならないのか? 
 具体的には「暴走」とは、市場における取引の結果、人々の生活が不安定化し、生存の危機にされされた場合にこそ当てはまりうる形容だろう。問題は、それは具体的にはいかなる状況なのか、である。本稿ではそれについて考えてみる。
 なお以下の考察では、「公共財」や「公害」などの明らかな外部経済・不経済の問題は捨象する。この種の典型的な「市場の失敗」に対する、国家の政策的介入の必要性の弁証は、とりあえずは不要であると判断するからである(4)。


2.
 「リベラリズム」の社会経済政策論の有力な基盤をなす、厚生経済学的な思考においては、人はまったく随意に市場経済に参加したりしなかったりするし、参加する以上はそこから利益を得られるものと(もちろん合理的に)期待している、とされる。有名な「厚生経済学の基本定理」、完全競争市場は社会をパレート最適な状況に導く、という主張(5)は、そのような想定から帰結する。
 ここで厚生経済学が十分に考慮に入れていない契機をいくつか挙げてみる。もちろん、完全競争市場という前提は考慮に入れた上で、なお残る問題である。まず第一に上述のケース。この場合問題の主体は、市場から撤退しても生きていけない(自給自足ができない)上に、少なくとも現状では市場での取引に差し出せるものがない、とする。比較優位の論理(6)からすれば、「市場での取引に差し出せるもの」が全くない、ということがよくあるとは考えにくいが、その取引によって得るものでは十分に生存できない、ということは十分にありえよう。
 それにしてもこれは果たして「暴走」と呼べるのだろうか。厚生経済学が想定するような市場であれば、過渡的、一時的にはともかく、中長期的には市場への参加を通じて生活水準は改善するはずではないのか。(仮に改善しないのであれば、市場に参加しなければよいだけのことではないか。)もしそうであるならば、ここでの生活の危機は市場のせいなのか。そうとは考えにくい。
 現実にもしばしば見られると言われる、伝統社会の市場経済化・産業化に伴って起きる生活破壊の原因は、その多くは不確実性やあるいは外部不経済(開発による環境破壊等のコストが、正しく市場取引のなかに取り込まれないことによる)に由来するものではなかろうか。
 あるいは以下のようなシナリオも考えられる――いったん市場経済に巻き込まれ、自給能力を失ったコミュニティがあるとする。市場経済に参加するということは、その範囲における社会的分業に参加するということであるから、比較優位の論理に従い、コミュニティ外に輸出する仕事は更なる洗練を遂げ、生産性を上げていくだろう一方で、それ以外の仕事は衰退し、外部からの輸入に依存することになるだろう。そうして市場経済への依存が高まり、もはや自給能力が失われたところで、何らかの理由――政治的・社会的変動でも、自然災害でもなんでもよい――によって外部社会との連絡が断たれ、あるいは困難となり、市場経済から隔離されたらどうなるか? その場合当該コミュニティの生活水準は、市場経済への本格的参加以前の自給生活どころか、それ以下の水準へと破局的に低下するだろう。それは何も、市場経済への参入以降の期待生活水準の上昇(上向きの適応的選好形成)のせいばかりではない。心理的にだけではなく、絶対的に(フィジカルに)低下するであろう。なぜならばかつての自給自足的生活様式のときに生活を支えていた数々の技術、技能が、市場的分業への参加と引き換えに失われているはずだからだ(7)。
 しかし繰り返しになるが、上記のような問題を市場の「暴走」と形容することには無理がある。それはまさに市場の「失敗」であり、その失敗は全面的にではないにせよ、かなりの程度市場の「力不足」のせいである。


3.
 第二に、マクロ的な契機。仮に市場が完全競争(に近い)状態にあったとしても、物価が安定していなければ、市場経済における取引の調整機構としての価格メカニズムがうまく働かない。局所的な価格変動が、その局所的な取引動向についての有効な情報シグナルとしての機能を果たすためには、全体としての価格体系(すなわち「物価」)は不変、とは言わないまでも安定していなければならない。このような条件が満たされていない場合には、市場における個別的な取引が、つねに社会をパレートの意味で改善するとは限らず、結果均衡が存在したとしても、それはパレート最適ではありえない。むしろたとえばデフレ局面における、値下げ競争が更に物価総体の下落を招く、デフレスパイラルが典型であるように、完全競争がパレート改善の反対に、むしろ「囚人のディレンマ」的な状況を導くおそれもある。


 少し詳しく見ていこう(8)。
 「局所的な価格変動が、その局所的な取引動向についての有効な情報シグナルとしての機能を果たすためには、全体としての価格体系(すなわち「物価」)は不変、とは言わないまでも安定していなければならない。」、一見逆説的に見えるこの主張は、以下のように解釈すればよい――この「価格の変化」とはあくまでもミクロ的、局所的、個別的なものなのであり、マクロ的に見れば価格体系は安定していなければならない、と。
 ある商品の価格、値段は、とりあえずは貨幣で計られ、貨幣との交換比率とみることができるが、より大きく見ればそれは他の商品との交換比率である。ミクロ経済学の目から見れば、価格とはつねに相対価格なのである。極端な話、貨幣を単位として計った価格が、全ての商品について、同じ方向に同じ割合で――たとえば10パーセント上昇、という風に変化したとしよう。このとき、貨幣を別とすれば(たとえば財布の中の貨幣の価値はこのとき10パーセント下がるわけである)、各商品の間の交換比率の総体、つまり「相対価格」「価格体系」はまったく変化していない、ということになる。
 つまりある特定の商品の価格が「変化している/していない」といえるための根拠、その変化の基準とは何か、というと、皮相に見れば貨幣であるが、より根本的にはマクロ的な価格体系、あるいは「物価」である。つまり「大体の商品の値段がそれほど激しくは変動していない(物価が安定している)」という条件の下ではじめて、ある特定の商品の値段の変化が、取引を調整しバランスさせる「価格の変化」としてはたらきうる。もし仮に他の全ての商品の値段全体が、同じ方向に同じだけ変化してしまえば、その商品の価格変化は(貨幣のことをさておけば)なかったも同然だからである。具体的な取引の当事者たちにとっては、売り手にであれ買い手であれあるいは仲買人であれ、差し当たり直接自分の手でその価格操作する(値付けする)ことができるのは当然、自分が取引している特定の商品だけである。しかしながらその商品の本当の意味での価格、つまり他の全ての商品との交換比率は、厳密な意味では決して操作できない。ただ、総体としての価格体系、物価が不変ではないにせよ、大体において安定している時に初めて、実質的に困らない程度に操作できる、というだけのことである。
 だから多くの商品の価格が激しく変動している、つまりは価格体系がマクロ的に不安定であるような状況では、個別の価格の変化が、取引を誘導してバランスさせるシグナルとしてはたらいてくれないおそれがある。一番わかりやすいのは、先にも述べました、ほぼ全ての商品の価格が同じ方向に、かつ同じような比率で動いている状況である。つまり物価が全般的に上昇している(インフレーション)か、あるいは低下しているか(デフレーション)である。たとえば不況と重なることの多いデフレ状況について考えてみよう。ここでは多くのものの値段が下がっている。これをある特定の商品、たとえばお米の市場のレベルで考えてみよう。売り手の米作農家や農協はどうするだろうか。いま現在の値段では高すぎるのだ、と判断してもっと安くするだろう。しかしどうすれば「安く」できるのか? もしも他の全ての商品の――麦だの味噌だの――の価格もまた低下しているのだとしたら、自分たちだけで米の値付けを変えて価格を下げたつもりでも、実際にはまったく下がっていないかもしれない。ではどうすればよいのか? 全体的な物価の低下を予想に織り込んだ上で、それを出し抜こうと更に極端な安値をつければよいか? 残念なことに、麦作農家とかその他の生産者たちも同じことを考えるであろう。かくして結果は、更なる全般的な物価低落、デフレーションの継続に他ならない。


 問題はこのような「マクロ経済問題」が何ゆえに発生するのか、である。従来支配的だった理解のひとつは、市場の不完全性、とりわけ労働市場や金融市場などにおける硬直性がその原因である、というものであった。要するに、労働組合や政府による規制のおかげで賃金が高すぎて、本来市場での取引を均衡させるはずを上回っているから、労働供給は過剰となり、労働需要は不足する、というわけである。(金融の場合は、やはり規制などのせいで金利が低すぎて借り手が過剰となり、資金不足を引き起こす、といったところか。)(9)
 しかしこのような理解には難点がある。もちろんこうした状況に現実性がないというわけではない。ある時期までの(そして今日でもかなりの程度)開発経済学の主要課題のひとつは、途上国におけるこうした硬直性の打破であった。そしてそうした硬直性の主たる要因は、ひとつには伝統的な社会慣行、そして今ひとつは政府による不適切な介入に求められてきた。
 前者はある意味わかりやすい話なので、後者に焦点を定めよう。途上国のほとんどはもちろん、経済発展を国家目標とし、そのための政策を構想し実行していく。しかし少なくともある時期(ことに社会主義計画経済の衰退以前)まで、経済発展戦略としては市場に全面的にまかせるのではなく、部分的にではあれ政府による規制と誘導、援助があった方がよい、という議論が支配的だったのである。それが金融面においては、しばしば人為的な低金利政策に結びつく。企業の投資を奨励するために、資金を借りやすくしよう、というわけである。また労働市場においても、途上国が必ずしも労働組合に対して否定的だとは限らない。国によっては、政権の有力な支持基盤を形成していることもある。また経済発展戦略において、農村の負担で工業その他の近代的産業セクターを優遇する、ということがしばしば行われる。その中で工業(その他近代的セクター)の労働者ももちろん優遇され、彼らの賃金が硬直化する、ということもありうる。(社会主義計画経済においては、まさにこれが現実であったと推測される。)(10)
 しかし以上のような問題はまたしても市場化の不足、市場化の不徹底というべきであって、対策としては「よりきちんとした市場機構の整備」に尽きてしまう。もしもいわゆるマクロ経済問題がそれに尽きてしまうのであれば、別個に問題としてとりあげる必要はない。


 私の考えでは、以上のような市場の不完全性に帰されえない、固有の意味での「マクロ経済問題」は存在する。先に説明したような物価の不安定化は、単なる硬直性だけからは説明しにくい。むしろここで注目すべきは、非常に広い意味での「投機」のメカニズムである。90年代以降「バブル」なる用語が日常語として定着したが、それは経済的にはどのような意味をもつのか? 「バブル」の対語は「ファンダメンタル(ズ)」、つまり実体的価値である。バブルとはファンダメンタルズからの乖離、上方への乖離であり、あるものが実体的価値を大幅に上回って取引されてしまうことである。
 なぜそのようなことが起きるのか? 我々になじみの深い典型的なバブルとして土地や株式のバブルのことを考えよう。本来土地や株式の値段は、そこから期待される儲けの効率、収益性によって決まるはずである。つまり株式なら企業の事業内容や将来性が根本であるし、土地であれば、農地としては地力、生産性が重要であり、そうではない場合には立地がポイントとなる。その土地を使って仕事をしようという目的で土地を買う人、またその株の配当から収入を得ようと思って株を買う人であれば、まさにそうした土地や企業の実体的価値=ファンダメンタルズを評価してそれを買おうとするはずだ。
 これに対して投機とは、そのような目的で、つまり自分で使う(株の場合は使うというのは変だから、配当から収入を得る)ために土地や株を買う、あるいはそうした相手に売るのではなく、別の目的で買い、そして売るという行為である。ここで投機的な買い手は、自分で使うためにではなく、誰か他の人(その人は自分で使うつもりかもしれないが)に、自分が買った以上の値段で買ってもらうために、とりあえず今買う。そしてそうした買い手が見つかったら売って利鞘(キャピタル・ゲイン)を稼ぐ。
 こうした投機がすなわち悪だとか、社会的に望ましくない結果を必ず生む、というわけではない。しかしそれは時と場合によっては社会悪に転じる。すなわち、このような投機も頭を使っての――すなわち、ファンダメンタルズを調べた上での取引であれば、実害は少なく、むしろ人がほしがるような土地、株式とは何か、という情報を生み出す、社会的に有益な仕事であると言える。しかしながらこれが反復していくと、投機家たちは段々頭を使わなくなるおそれがある。つまり、その土地や企業の実態を見て取引に手を出すのではなく、表層的な値動きだけをみて取引に手を出す奴らが出てくる。こういう連中が増えると、価格の自己運動がはじまる――すなわち「この土地・株は見込みがある→だから買い→値上がり」ではなく「この土地・株は値上がりしている→だから見込みがあるんだろう→だから買い→値上がり」ということになるのである。前者であれば、価格が適正なレベル=ファンダメンタル水準まで行き着けば値上がりが止まることになるわけだが、後者の場合は価格が自己運動を起こすばかりで抑制が効かない。そうやって実体から乖離して価格が膨れ上がった資産を「バブル」と我々は呼ぶ(11)。
 厚生経済学が想定しているような、理想的な価格メカニズムの基本はネガティブ・フィードバック、つまり一方に揺れたら反対方向への揺れ戻しが起こり、揺らぎが増幅されない、というものであり、だからこそ市場は全体として安定であるわけだが、このバブルのメカニズムは揺らぎを増幅するポジティブ・フィードバックである。そしてこうしたバブル的取引があまりにも盛んになれば、それが市場経済全体のネガティブ・フィードバック・メカニズムを歪めていくだろう。
 ただし、こうしたバブルの増幅の結果として引き起こされるかもしれない大規模インフレーション(財政破綻統制経済崩壊の副産物であるハイパーインフレーションとは区別する)よりも、むしろ歴史上深刻な結果を引き起こしているのは、バブル崩壊=恐慌の反動として生じがちなデフレーション、全般的物価停滞ではないだろうか。
 何となれば、インフレとは需要に対する供給の不足である。戦争や破局的災害による、当該経済社会の生産力基盤自体の崩壊のケース(まさにそのような場合には、租税収入にも、また公債発行にも期待できないために、政府は往々にして紙幣濫発による貨幣発行益によって財政収入を確保しがちである。ハイパーインフレーションはそのような場合に起きる)の場合には、インフレの背後にある供給不足とは基礎的な資源や生活必需品の不足を意味し、極めて深刻な問題となる(低開発国、とりわけ最貧国はこのような状況に陥っていると言えよう。)また旧社会主義国などの物価統制が強固な社会においては、こうした供給不足がインフレという形で表に現われることさえできず、その結果あのよく知られた買い物行列や闇市が発生する。
 しかしこのような破局に陥っていない、生産力水準が一定以上の社会においては、インフレの背後の供給不足は、飢餓や生活苦を意味するものではない。このような状況でも過労による労災、死亡事故、自殺等の問題がもちろん発生するが、それでも比較の問題として言えば、デフレの方が甚大な社会悪を帰結する。何故ならデフレとは需要不足、不況を意味するからだ。そして不況下においては大量倒産、大量失業が発生する。当然ながら好況下の過労死・過労自殺よりも、不況下の生活苦・自殺・過労死の方が深刻な問題であると言えよう。(不況下ではもちろん社会的に見た総労働時間は短縮されるが、幸運にも失職しなかった労働者に限って言えば、一人あたりの労働時間が減るとは限らない。)


 付言しておくとデフレもまた、見方を変えれば一種のバブルととらえることができる。それは上向きではなく下向きのバブル、根拠なき投機的な価格下落によって引き起こされる現象として理解できる。また全般的に物価が下がると言うことは、視点を変えてみれば貨幣の価値だけはひたすら上がっている、ということでもある。すなわち、デフレとは貨幣のバブルである、ということもできるのだ(12)。
 仮に市場の「暴走」と呼ぶべきものがあるとすれば、こうした投機の暴走によるマクロ経済的不安定こそがまさにそれにあたるのではないか。だとすればこの考え方はリベラリズムにひとつの軸、政府のアジェンダとノンアジェンダを分ける明解な規準を与えるのではないか。つまりこうした「暴走」局面に陥らない限りは自由な市場を放任し、「暴走」が起きそうになればそれを予防し、起きてしまえば可能な限り速やかにそれを沈静化させる、というのが、市場経済に対する政府の基本的なスタンスである、と考えればよいのではないか。


4.
 では3.に提示したアイディアと、「ミニマム」をどこに引くかという問題をめぐって揺れ動いてきたオーソドックスなリベラリズムとの関係について考えてみたい。それは要するに語の広い意味での福祉国家、再分配国家の問題である。メンバーの生存を最低限ぎりぎり保障するに過ぎない最小国家にせよ、あるいはロールズの「格差原理」が要求するような、もっとも不遇な人の生活水準が、可能な限り高くなることを目指すかなり高レベルの再分配国家にせよ、豊かな者から貧しい者への強制的再分配が行われる国家である。またそうであるならば、そのような再分配政策が、市場経済に対して何ほどかの歪みをもたらす可能性はある。
 課税による勤労意欲への影響は括弧に入れた上で(13)、わかりやすいところでは、生活保護や公的失業保険、あるいは最低賃金政策によって労働市場が歪められ、労働市場ヘの過剰供給――失業圧力が形成されるのではないか、という問題が思い浮かぶ。
 ではそれは具体的にはどのような場合かと言えば、自然な均衡水準でのあるべき最低賃金が、政策的な最低賃金を下回っているような場合、端的にいえば経済のサプライサイドが弱い、潜在成長力が低い場合、ないしは経済の現状に対して、政府があまりにも無知かつ楽観的で、高望みをしている場合、である。それをさらに具体化するとどうなるだろうか? ひとつには、社会主義的な志向の強い政権下にある低開発経済のケースであり、今ひとつは、先進国の高度に産業化された経済ではあるが、福祉国家による規制がきつすぎるというケースである。
 しかしまず最初に、この両者のいわば「病理的」なケースではなく、その中間領域について考えてみよう。この領域においては最低賃金生活保護などの福祉国家的規制・再分配政策の市場に対する歪曲効果は、実は無視してよいほど小さくなるないはずである。だとすればその存在意義は、実は心理的安心感や社会的連帯感を生み出す、政治的シンボルとしての機能にこそあり、基本的にはプラスである、ということになろう。
 このような健全な状況が普通であり、「病理的」ケースは例外に他ならない、というのは過度な楽観かもしれない。ここでの主たる変数はまずひとつには、社会の実体経済、サプライサイドの生産力と市場の効率性であり、今ひとつは福祉サービス・労働市場規制等の福祉国家的政策である。後者は短期的に操作可能だが、前者は短期的にはほぼ不変であり、長期的にも意のままには変えられない。これを変える、つまり生産性を向上させるには、自由で安全なビジネス環境を整えるという競争政策と、マクロ経済の安定化を図る財政金融政策を、長期的にじっくりやっていくしかない。以上のように考えると、「病理的」ケースへの転落はちょっとした政治的風向き、政策判断の誤りで簡単に起きてしまうので、その意味ではたしかに楽観的にはなれない。
 それに対して「病理的」ケースからの脱出には当然ながら二つの方法がある。ひとつは少なくとも理論的には簡単である。つまり規制緩和であり、福祉支出の削減である。実際的にも、短期的に実行可能で、即効性もある程度期待できる。
 もうひとつは実体的な生産性それ自体の向上であるが、こちらは理論的にも実際的にも困難で、可能だとしても長期的にしかなしえない。これは具体的にはどのようなものになるだろうか? 
 法と秩序が保たれた上での規制緩和は、市場における競争圧力を高めることにより、おおむね生産性の向上にプラスの効果を持つであろう。しかしそうした効果はあくまでも長期的にしか発揮されないであろうから、規制緩和政策を「一石二鳥」と見なすべきではない。福祉支出の削減も、その分租税負担の軽減に回されれば、一部の企業や労働者の意欲は増やし、生産性を上げるかもしれない。しかしこれについては正負両方の効果がありうる(「税金が安くなったのでもっと働くぞ!」という場合もあれば「税金が安くなったのでもう十分、少し休もう」という場合もありうる)ため、やはりその効果に過剰な期待を抱くべきではない。つまりこちらも基本的には「働かなくてももらえる生活保護の給付水準を下げることによって、市場賃金を均衡水準にまで引き下げ(もし生活保護給付が均衡賃金を上回っていたら、それは市場では普通実現しなくなるだろうから)、市場の効率を上げる、という効果こそ期待すべきであろう。
 いわゆる産業政策については「戦略的貿易政策」理論などで指摘されたような可能性は完全には否定できないにせよ、それでも具体的なケースにおいては、どの産業を育成対象として選択するかについての困難がつねに付きまとうはずであり、原則的には期待すべきではない(14)。となればここで政府にできること、政府のなすべきことはまさに政府にしかできない、公共財的性格の強いインフラストラクチャー――もちろん教育等のソフトなものも含めた――の供給くらいしかないであろう。しかしこれにしても即効性を欠くもの――教育はその典型――がほとんどであることは言うまでもない。
 となると結論は以下のようになる――「病理的」ケースからの脱出法においては、即効性がありかつ確実なのは、規制緩和であり福祉切り捨てである。しかしながらそれは基本的に縮小均衡戦略なのであり、少なくとも短期的には「一石二鳥」を期待すべきではない。それに対して、少なくとも理論的には、規制緩和も福祉切り捨てもなしでの生産性向上、高度成長による賃金水準の自然な上昇、というシナリオも排除はできない。ただし即効性はまったくなく、確実性も低い。財政負担の提言はともかく、市場における規制緩和と競争の促進は、もちろんこれも長期的にしかきかないとしても、生産性向上のためのもっとも有力な――確実性の比較的高い戦略ではあり、それなしでのインフラ整備や産業政策中心の発展戦略に、勝算はほとんどない。
 ただ考えておくべきは、こうした「病理的」ケースが長く続いて社会構造化してしまい、既得権益が発生している、そしてそれに依存して生活している人口集団が再生産されるようになってしまっている場合である。「規制による権益はもともと不当なものであったのだ」と頭から没収するという選択は、政治的に困難であるのみならず、仮にその権益に与っていたクライエントが、その不当な規制の責任を問えない(法的な意味で)善意の人々(ただ政府の言うことを信じた無辜の民)だった場合には、それ自体で不当、不正でさえある。となればなしうるのは、何とか長期的には自由化以後の高度成長によって損害は補償される、と説得することであろう。しかしそのためには結局、短期的な不利益は受容し、何とか凌いでもらわなければならない。ここで困難な問題は、その短期的な不利益が致命的になる人々、長期的に補償を受け取れない人々についてはどうするのか、である。
 もし見殺しにするのを避けたいのであれば、結局ここで、先に「勝算がほとんどない」とまでくさした、規制を温存しつつ、他方でファンダメンタルな生産性を上げる、という二律背反的な戦略を採らざるを得ない。もし仮に、あくまでもそうした人々があくまでも少数にとどまり、規制の温存も、その人々の生存を可能にする程度の、限られたものにとどめることができるのであれば、つまり問題の経済社会における原則としてはあくまで規制緩和路線を貫くのであれば、その戦略にも多少は勝算があろうが。
 それにしても上に描いたような状況が実現してしまうとは、果たしてどういうことなのだろうか。非常に誤解を招く表現だが「間違って生まれてきてしまった人々」とでも呼ぶべき人々が、この世には存在することがあるのではないか。彼らに対する十分な生存の基盤を保証できる見込みもないのに、不用意にこの世に呼び出されてきた人々が。いわば「あらかじめ奪われた人々」が。しかしもちろん、誰も人に対して、自分が生まれてきたことに対する責任を問うことはできない。それどころか逆に、こうした人々の方にこそ、間違って自分たちを生み出した者に対して、責任を問う権利があるわけである(15)。


 しかしながら上に論じたような隘路は、今日では主として低開発諸国、最貧国の抱え込んだ問題であると言えよう。もちろん今日の先進諸国でも「アンダークラス」論などにおいて、同様の議論が展開されている。保守的な論者は、大都市スラムにおけるアンダークラスの発生要因は、基本的には過剰な福祉政策であり、それへの依存である、という。しかしそれに対して、アンダークラスに欠けているのは雇用、労働需要である、という有力な反論も存在する(16)。これを敷衍するならば、すなわち、先進国における自然な最低賃金は、法定最低賃金生活保護の水準を、少なくとも大きく下回るようなことはなく、むしろ先進国における失業の多くは、マクロ経済的な要因に帰すことができ、福祉や規制による市場経済の攪乱にはない、という対立仮説の方が、むしろ説得的である場合が多い、ということではないか。
 更に言うと、マクロ経済的攪乱、ことに不況の場合には、福祉や規制、あるいは労働組合の戦闘力による労働市場の硬直性は、本来ならば価格メカニズムを攪乱するはずが、もともと混乱して機能不全を起こしている(価格変動が取引についての有益な情報を伝達できない)状況下では、価格を硬直化させることによってむしろ物価の不安定化を喰い止めないまでも緩和することさえ期待できる。つまりそれは、単なるお飾りではまったくない。(これは先進経済か低開発経済かを問わずに言えることである。しかし残念なことに、低開発経済におけるケインズ的不況の可能性については、あまり注目が集まっていない。現実問題としてはどうなのだろうか? )


 こう考えてくれば、福祉国家的な規制・再分配には、大まかに言って二つの顔がある、ということになる。経済のサプライサイドが余りに弱いにもかかわらず、それを軽視して過度に高い理想を追求するならば、それはまさにロバート・ノージック最小国家論者が批判するような害悪を生み出す仕組みである。しかしながらそうではなく、経済のサプライサイドが強く、生産力が高い場合には、むしろそれは政治的・社会的連帯の象徴として、また不況期の安定化装置(財政学にはビルトイン・スタビライザーという言葉がある)として機能しうるのである。
 かくして、福祉国家が提供すべき「ミニマム」の水準は、決して「恣意的」なものとしてではなく、経済理論的な裏付けをもって設定することが可能であることが明らかとなった。まず第一に、ケインズ的な景気政策は、市場経済がマクロ的な不調にあり、社会のパレート的な改善を行えなくなっているときにのみ正当化される。そして第二に、法定最低賃金を中心とする労働市場への規制は、その最低賃金が、経済がマクロ的に安定している局面において成立する、自然な市場均衡水準における最低賃金(マクロ的に不安定な場合にはそもそもこのような均衡賃金なるものが成り立たない。不況期においては際限なく下落するおそれがある。)から乖離しない、とりわけ大きく上回らない限りでのみ、正当化されうる。この考え方は、福祉国家を支持する穏健なリベラリズムの社会経済政策が、必ずしも根拠を欠いた恣意的なものではなく、政府の「なすべきこと」と「なすべきではないこと」を明確に区別する基準に則ったものであり得る、ということを示している。
 無論そのときそのときの状況に応じて、現在の経済は果たしてマクロ的な不安定状況にあるのかどうか、またあるいは「自然な最低賃金」とは具体的にはどのレベルなのか、についての実践的な判断には、大きな困難があるであろうことは想像に難くない。しかしそうした困難はあくまで実践的、技術的なものなのである。



【註】
(1)言うまでもなく代表的な理論書はロバート・ノージックアナーキー・国家・ユートピア』(嶋津格訳、木鐸社、1989年)である。
(2)この問題については拙著『リベラリズムの存在証明』(紀伊国屋書店、1999年)、第6章3を参照。
(3)John Rawls, A theory of justice, Harvard U.P., 1971., chapter ?.
(4)適切なミクロ経済学厚生経済学の教科書を参照。日本語では例えば常木淳『公共経済学(第2版)』(新世社、2002年)の3と4、奥野正寛・鈴村興太郎『ミクロ経済学?』(岩波書店、1988年)の第?部全体と第32章、第33章。
(5)常木前掲書、1・2と1・3、奥野・鈴村前掲書、第17章。
(6)適切な国際経済学(貿易論・国際ミクロ)の教科書を参照のこと。例えば澤田康幸『基礎コース 国際経済学』(新世社、2003年)の第1部。ごく簡略には拙著『経済学という教養』(東洋経済新報社、2004年)、45-48頁。
(7)拙稿「グローバル化と産業化の道の行方」(http://hotwired.goo.ne.jp/altbiz/inaba/031202/)を参照。
(8)拙著『経済学という教養』54-55頁、岩井克人『不均衡動学の理論』(岩波書店、1986年)、第3章。
(9)拙著『経済学という教養』57頁。
(10)開発経済学の入門としては、澤田前掲書、第3部の他、絵所秀紀『開発の政治経済学』(日本評論社、1997年)、ウィリアム・イースタリー『エコノミスト、南の貧困と戦う』(小浜裕久他訳、東洋経済新報社、2003年)等を参照のこと。
(11)拙著『経済学という教養』79-84頁、ならびにそこに挙げられた参考文献を参照。
(12)小野善康『景気と経済政策』(岩波新書、1998年)
(13)課税が勤労意欲・労働供給に及ぼす効果は必ずしも明確ではない。課税されることによる勤労意欲の減退、ひいては労働供給の低下という効果(ミクロ経済学的に言えば「価格効果」)が考えられる反面、課税による税引後所得の減少を補うため、就労を促進する効果(同じく「所得効果」)も考えられる。
(14)「戦略的貿易政策」理論とその限界については提唱者ポール・クルーグマンの『経済政策を売り歩く人々』(伊藤隆敏監訳、日本経済新聞社、1995年)、第10章。
(15)この論点については拙著『オタクの遺伝子』(2005年、太田出版)、281-284、309-310頁を参照。
(16)「アンダークラス」論については堅田香緒里「アンダークラス言説再考」『社会福祉学』第46巻第1号、2005年、を参照。

                              (2005年12月)