トークセッションに向けてのメモ

 なぜ今回、塩川伸明先生をお招きしようと考えたのか? 
 今回の『所有と国家のゆくえ』という本の「裏テーマ」と申しますか、まえがきで言うところの「本丸」とは結局、「社会主義は今日、いかなる意味を持っているのか?」ではないか、と本を作り終えて稲葉は考えたからです。
 かつて社会主義崩壊、体制転換以前の塩川先生は、ソ連研究者として、社会主義を、我々非社会主義世界、資本主義社会に生きる者たちにとっての「希望」ではなく、さりとて我々の社会の指導理念にとっての「敵」でもなく、現実に存在している「他者」として、虚心坦懐に内在的に理解すべき対象としてとらえることを主張してこられました。これはただ単に理念としての社会主義を拒絶して、事実としての、現存する社会主義体制の実証的研究に先進する、ということを意味するわけではありません。「希望」、理念としての社会主義は「現存する社会主義」を領導する原理である以上、そのれっきとした一部です。その理念は、我々自身にとっての「希望」ではもはやあり得ないにせよ、それでもかつて我々の少なからずを鼓舞し、あるいは自省させたものとして、また我々の隣人たちが生きるもうひとつの社会の指導理念として、我々にとっても無縁ではあり得ない――稲葉の理解する塩川先生の本意は、ここにあります。


 そのような塩川先生にとって、八〇年代末から九〇年代初頭にかけての急速な体制転換は大きな衝撃でした。社会主義の崩壊自体は驚くべきことではありません。と言うより、社会主義が放っておけば早晩崩壊しかねない欠陥を抱えていたことくらい、研究者の間では常識に属していました。それは当の社会主義圏にあっても同様であり、それゆえにこそ市場原理の導入、情報公開といった体制内改革の試みがなされていたのです。にもかかわらず変革はこの改革の単なる延長、その完成というよりは、それを通り越し、――旧東ドイツの選択が象徴するように――既存の資本主義体制に合流する、という形で行われました。
 これはただ単に、かつての「人間の顔をした社会主義」という理念――「現存する社会主義」と資本主義双方に対する批判であり希望であることを目指した――の解体を意味しただけではありません。そのような理念としての「人間としての社会主義」を、塩川先生はかなり早い時期に見切っておられるし、実はブルス、コルナイなどの体制内改革の理論家たちもそうであったと思われます。ではどういうことか? 
 そもそも我々の生きる資本主義の社会、自由な市場経済とリベラル・デモクラシーの世界において、体制を領導する理念など果たしてあるのでしょうか? そこに理想やモラル、正義がない、というわけではありません。そうではなく、メンバーが皆一致して共有するような目標、そこに向けて社会全体を近づけていこうというユートピア的な理想が存在しない、という意味です。(長谷部恭男さん風にいえば)「比較不能な価値の共存」とはそういうことです。
 そのような意味でのユートピア的理想、あるいはメシアニズムと手を切った上で、それでもなお(資本主義におけるのと同様に)よりましな方向への改善の試みを続け、かつそうした努力がある程度報われる社会へと、社会主義体制が変わっていくこと――かつての体制内改革派や塩川先生が展望していたのは、そのような可能性であったと思われます。
(かつての岩田昌征先生の場合は微妙です。岩田先生は一方で『凡人たちの社会主義』(筑摩書房)なる著書もものされるほど、醒めつつなお暖かい視線を社会主義社会に向けていましたが、その他方で少なくともある時期までは、旧ユーゴスラヴィアの「自主管理社会主義」実験に対してほとんど「希望」と呼んでよいような期待を寄せてもいました。)
 つまり問題は、「希望」でも「敵」でもない「他者」としての社会主義社会が、ただ単に変貌するのではなく、ほぼ「自己否定」という形で消滅してしまった、ということです。理解すべき他者自体が、その他者性もろとも消滅してしまったわけです。


 もちろん実証研究者としての塩川先生には、その他者の消滅過程それ自体を虚心坦懐に理解するという仕事が残っていますし、社会主義体制が消滅しても、ロシア、旧ソ連東欧地域が消滅したわけではないですから、それらの旧社会主義社会という他者は相変わらず存在しています。しかしだからといって社会主義という他者の消滅は大した問題ではないか、といえば決してそのようなことはない。
 理念と現実を込みにした「現存する(した)社会主義」という他者なくしても、資本主義の批判は可能であるし必要だろう。しかしながら「現存する社会主義」があることによって、資本主義の批判はある意味で容易になる。それはもちろん、「現存する社会主義」が資本主義批判の根拠とか尺度を与えてくれるから、ではない。社会主義は現実の体制としてはもちろん、理念としてもそうした「希望」ではありえない。だが、理念と現実を込みにした総体としての「現存する社会主義」の実在によって、資本主義社会に生きる我々にとっても、いま現にある社会体制が唯一の選択肢というわけではないのだ、ということがよりいっそうリアルに実感されうる、とは言える。
 再三指摘されてきたことですが、かつて「現存する社会主義」は西側資本主義諸国における福祉国家、また社会民主主義に大きな刺激を与え、その促進要因となったことは否定できません。
 しかし問題はそれだけではありません。そのちょうど逆方向からも、問われねばならない問題があります。
 資本主義の問題を指摘し、その欠点を批判することは可能であるし必要であるとしても、そうした批判はまま批判だけに甘んじることを許されず、そうした欠点を克服、あるいは矯正するための処方箋、代替案を提示することを求められます。しかしながらここで考えなければならないことは、どのような代替案であれば実行可能、そしてまた許容可能なのか、ということです。かつての社会主義のプラン――その中心が計画経済と人民民主主義であったわけですが――こそは、最も包括的、体系的な資本主義に対する代替案であったわけです。しかしそのようなかつての「現存する(した)社会主義」がおおむね失敗に終わってしまったわけですから、それは単なる前例ではなく、むしろ「教訓」「反面教師」「べからず集」のような性格が強い。
 しかしながら「現存する社会主義」が過去のものとなり、ポスト社会主義社会が単なる普通の資本主義社会を目指す傾向が強くなってしまった今日では、こうした過去の教訓のリアリティもまた、希薄になってしまっているのではないでしょうか。ポスト社会主義社会、かつての社会主義支持者たちは、「現存した社会主義」の過去を否定し、葬送することに忙しく、往々にしてどちらかと言えばマイナスの「教訓」とするためにでさえ、その内在的な理解と継承を怠りがちとなり、その波及効果は資本主義社会における体制批判者たちにも及んでしまっているように思われます。すなわち、現代資本主義における左翼は、下手をするとかつての、社会主義体制が現存していた時代に比べてもなお、往々にして「社会主義の教訓」を忘れがちであり、知らず知らずのうちに二の轍を踏んでしまいがちなのではないでしょうか。まさにマルクスが警告したように「歴史は繰り返す、ただし一度は悲劇として、二度目は喜劇として」ということになっていなければよいのですが。
 かくて今日においては二重の意味で、我々は資本主義批判の指針を見失ってしまっているのです。(続く)