『不登校は終わらない』(続)

手厳しいね。
http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20041210#p3
「違和感を感じる(擁護できない、と言いたいのではない。)」(http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20041210#20041210fn1)というあたり、なかなかひでくすさんの方でもうまい言い方が見つからないしぼくの方でもどう答えたものか苦しいところである、という事情をうまく言い当てている。
ぼくはある時期以降完全に引きこもって安楽椅子化したので、ファクトファインディングがあるだけで点が甘くなる、というのは認めます。でもファクトファインディングって大事だよ。それを軽んじて気の利いたことだけ云おうとして結果ダサクなった日本社会学の惨状の見本市が『岩波講座現代社会学』じゃん。一時期東大の社会学の院生の間には「家族・地域・労働はできない子のやること」という風潮があったと聞く。結局フィールドを捨てた俺に云われたくないかもしれないが、当然こんなのは間違ってる。
あと「「語りえないもの」は、〈登校/不登校〉のバイナリ・コードの内部に生じるパラドクスに過ぎない。そのパラドクスを当該コードがいかに処理しているか・隠蔽しているかは外的観察にとっては語りえないものでもなんでもない。」というのはその通りで、「だから内的観察から脱出できないのはただのアホだ」というのも分からないではないのだが、しかしその「治癒不能のアホ」こそがまさにサバルタンであり、そういうものが存在するという事実は内的は当然外的な視点からも否定できないんだから、それなりの対応が必要では、と思うのだが。
あるいはここに「でも結局外的観察というのもつきつめれば実は内的観察――ではなくそのようにして世界に位置づけ直されることになってしまった(永井均の云う)〈開闢〉によって初めて可能になっている」と言い出すと話はもはや社会学でも何でもなくなって形而上学の方に行ってしまうのだが。
このように考えれば「治癒不能のアホ」としてのサバルタンにも種類があるわけで、ただの「ぼくの気持ちを裏切ったな」と情報価値ゼロのノイズを反復的に垂れ流す実存君なら、少なくとも語り手としては「逝ってよし」だが、「内的視点から脱出して外的視点に到達することはいくらでも可能だがそのありとあらゆる可能な外的視点さえも突き詰めれば〈私〉=宇宙という名のある「内部」に閉じこめられているじゃないの」というところに到達できる「筋金入りのアホ」としてのサバルタンなら、ぼくは尊敬します。