大人左翼

ええとこの間「自己責任」だのなんだので言われてることにずっと違和感を感じてきたのですが、そしてまだ十分腑に落ちてはいないのですが、
まずいと思うのは、イラクに行って人質になってそのうち一人は結局殺されてしまったんですが、あの方たちを左翼・市民派・リベラル・革新の側からきちんと批判するというか「叱る」ということがなされてこなかったのは非常にまずいと思います。池内恵も『諸君』あたりで「ひょっとしたらこれは日本における左翼のおわりになってしまうのでは」とあくまでも他人事としての(しかしかなり真剣な)危惧をもらしておりましたし、最近では山本夜羽音http://d.hatena.ne.jp/johanne/20041028#p1などもありますが、これはいったいどうしたことか。
一昔前であればああいう善意から出た軽率な振る舞いに対しては、党派を中心とする既成左翼エスタブリッシュメントから非常に厳しい批判というかそれこそ「叩き」があったはずであり、それに対してノンセクト系とか「市民派」からの擁護があり、というような応酬があったはずなんですが、ある時期以降明らかに左翼総体がゲットー化して、表面的にはみんな仲良しクラブ風になって、「純粋な正義や善意にケチはつけまい」的な雰囲気が少しばかり濃くなっていないだろうか。
もちろん党派の権力とか、××理論の教条とかの権威をかさにきた叩きが影を潜めたことそれ自体はよいことなんだろうけど、そうではなく現実性、実効性といったことを十分に思慮に入れたいわば「大人」としての立場からの「叱責」の主体という機能を担うのであれば、やっぱり左翼にも「権威」は必要なはずでしょう。「党」とか「理論」とは別の形での権威が。
大体昨今の日本の「保守化」「右傾化」「権威主義化」というのは、どっちかというと権威の崩壊ゆえに起き、そして(当事者たちの多くの意に反して)ますます権威の崩壊を加速させていく過程に他ならないわけです。「父性の復権」なんかその典型だ。「権威」それ自体は敵じゃあない。一般論のレベルでは、「権威」なしには世の中は多分回っていかない。問題はどうすれば健全な形で権威を構築していくことができるか、でしょう。


というようなことを権威なき父としては考えるのであった。