木庭顕「10兆円ファンド」(法律時報95巻6号)へのコメントとリプライ

 

2023年5月30日(火) 21:56 稲葉振一郎

木庭先生

ざっと拝読しましたが、やや気になるところがございます。
資本主義の本義は資産の商品化、市場化というところにあり、なおかつそれが過度の投機化によって消耗されることなく守られ、資産のゴーイング・コンサーン・バリューが守られるというところにあると思われます。そのため資産は丸ごと売買されるのではなくlocatio conductioを経由する必要があり、占有が保護されねばならない。
ただ近代資本主義においては同時に、たえざる技術革新が求められるため、守られるべきゴーイング・コンサーン・バリューがその内実においては柔軟に変転する――にもかかわらず占有自体のアイデンティティが保証される――という離れ業が必要になるかと思います。占有の安定と市場における競争のバランスを保つことの困難が資本主義の困難であり、ここに失敗すると市民社会が荒廃します。
かつての「ジャパンアズナンバーワン」時代の日本企業に対する高評価は「長期雇用やメインバンクシステム、更に旧通産省の下での業界秩序の維持による安定が、そのような占有を安定化させつつ、その安心感ゆえの革新へのコミットを可能にした」とでもいうべきものでしたが、日本の生産現場の停滞が70年代には兆していたと判断される先生がそのような評価を100%共有するとは思いません。ただ一方で先生はやはり、55年体制下の日本がデファクトに擬似的な利益集団リベラリズムを実現していた、という判断をこの手の議論と共有されているように思います。その限りにおいて先生の議論は、日本型企業社会がかつては擬似市民社会的安定を提供していたが、バブル崩壊以降それが解体した、という議論のバリエーションであると思います。ただそうしますと、そのような崩壊の中から再び市民社会を回復するためには、無からの創造とはやはり行きませんので、過去の遺産を利用するしかないですが、きちんと考えないとそこはやはり古い日本型企業社会の再生、とは言わずともそのリサイクル、ということになってしまうのではないでしょうか。
現状、先生の言葉では2013年体制においても、なお日本経済は景気の回復にもかかわらず十分な再生を遂げていない、という主張は、金融緩和が積極的な実物投資を呼ばず、賃金上昇を帰結しないところからもある程度の説得力を持つかもしれませんが、ではどうすればよいのか、についてはなかなか良い知恵が出ないというのが正直なところではないでしょうか。もとよりそれは不可能だとしても、仮にかつての古典的な日本型企業――「日本型雇用慣行」と「メインバンクシステム」のセット――が再生したところで、新たな時代に向けての技術革新の担い手になるなどとは、先生も期待されてはいないでしょう。ここはやはり古典的な議論ですが、そのようなやり方は産業化初期局面の追いつき型発展においてのみ限定的に有効、と考えた方が安全でしょう。
もちろんいたずらに規制緩和を呼号するだけでは、やらずぶったくりのレントシーキングが活性化されるだけで、革新を誘発するような競争は活性化せず、市民社会としての市場は育たないでしょうが、その際に何を具体的な基盤として私たちは見直すべきでしょうか。日本型企業社会論が想定するような、大企業中心のピラミッドというわけではないでしょう。むしろここで重要なのは、そうした下請ピラミッドと必ずしも矛盾対立するわけではないですが、中小零細企業主体のいわゆる地域産業集積ではないかとも思いますが、まだ考えがまとまっておりません。

 


2023年5月31日(水) 8:56 Akira Koba

稲葉様

保存したいくらいよい質問を頂きました。

占有には様々な作用がありますが、
確かに現状をすぐには壊させない作用も重要です。
しかし、すぐには壊させないだけで、
権原思考と異なり、じっくり議論した末壊すことになる
ことは妨げません。
次に、現状に対して選択的に働きます。
良い現状は保護しますが、悪い現状は解体します。
良い悪いの基準は、もっぱら、より個別的で個人的な方を勝たせる、
というものです。
したがって、集団組織解体的に働きます。

だからこそ、私は至る所で利益集団多元主義攻撃を繰り返しているわけです。
個人と人権をおろそかにしている、と。
戦後日本のそれは、しかも、不完全な物で、
不透明な集団による多元主義でした。
したがって、おっしゃるような終身雇用等のメリットはあったにしても、
経済の観点からも、行き詰まりは目に見えていました。

私は、「改革」も、そうした欠点を修正するのでなく、
もっと過激にするものであった、と捉えています。
つまり、55年体制か改革かというのは偽りの選択肢で、
ここは完全に連続的です。

資本主義が資産保全と技術革新の両立を目指すというのは、
ある意味そのとおりですが、
私が言い続けているのは、資産に占有概念を応用するときのリスクです。
暫定的にのみ占有を成り立たせる、そして悪い資産(親子会社関係のジャングル)
を解体する、というのでなければならないが、
どうしても資産占有を近代のように公然と認めると、
組織保存的になる。
Williamsonは組織規模を取引費用から算出できるとしましたが、
もちろんなかなか良い線を行っていた。
しかし致命的なことに、組織自体をアプリオリに警戒する視点を持っていない。
locatio conductioは、組織形成的でなく、組織内を完全にオープンにする、
市場的にする、ための契約類型です。
しかし長期契約論に転換されてしまっている。
他方で、占有を効かせないから、
組織内個人を防御しない。研究者の雇い止め問題等ですね。

占有の選別的作用は、たくさん書いているのですが、
なかなか理解されません。
Verginia伝承自体(三部作のIII)か「誰のために」の「ルデンス」かを
参照頂きたく思います。イメージを掴むためにですね。

占有自体についてはいつも受ける質問なのですが、
流石に、日本型利益集団多元主義の経済問題と関連付ける質問は、
貴重で、
稲葉さんに送ってみてよかったと思いました。
今後も鋭い指摘を期待します。

木庭

 


追伸

書き忘れました。
日本型経営ないし雇用ないし取引慣行礼賛は、
おっしゃるとおり、戦後期の礼賛ですが、
1980年代、「改革」期にピークを迎えた、
ということも忘れてはなりません。
捻れた共犯関係です。

 

 

『水星の魔女』雑感

 もちろん『水星の魔女』は意匠としての百合を利用しただけであってクィアにコミットしようとしたわけではない。また百合も主題というよりは本来の主題の副産物として導き出されたものではなかろうか。本来の主題が何かといえば、訴求力の強いテレビシリーズとしては初の女性主人公のガンダム、というところである。ただそこで、それでは主人公の傍らに配するパートナーをどうしようか、という問題が浮上した。そこでパートナーを男性にしてしまう、という選択肢ももちろんありえたのだが、女性にしてしまった。その結果が百合というフォーマットの採用である。そのように考えるならば、女性を主人公、エースパイロットにするという点では性別役割批判として革新的だが、サポート、バックアップ担当のパートナーもまた女性にしてしまったという点では、むしろ不十分だった。こういう意地悪な見立てもできる。海外クィア勢からの率直な支持に比較したとき、国内クィアからの反応がいまひとつだったとすれば、それはながらくガンダム、そしてロボットアニメというジャンル、フォーマットに付き合ってきた日本人の経験が反映していたのだろう。
 思い返せばファーストガンダムというのは、その点からもなかなか面白い作品だった。もちろんそこではエースもトップも男性であり、女性はあくまでもサブ的な地位に押し込められる家父長制的構造が貫徹しているのだが、それをずらしたりおちょくったり解体するような運動も随所に仕掛けられている。とりわけ重要なことは、主人公に明確なパートナーが配されない、ということだ。恋愛の主題は提示されはするが、悲恋に終わる。この点では『水星の魔女』を含め、以降の作品の多くはむしろ後退しているとさえいえるだろう。
 もうひとつ、それまでのロボットアニメの系譜から見たとき、ファーストガンダムでは父と子という主題が意識的に打ち捨てられていることも重要だ。『マジンガーZ』以来、父の遺産、あるいは家産としてのロボットの主人公による継承、という意匠は多々用いられてきたわけであり、ファーストガンダムにおいてもそれは踏襲されてはいるのだが、そこでは父は早々に退場するし、ガンダム本体以外にはその遺志や遺産というものも残らない。主人公の親からの自立という主題は、親をあっさりと捨てるという形でなされる、あるいは上司や敵の方にこそ正面から立ち向かい克服すべき父性というものが体現されている。
 ファーストガンダム以降、ガンダムその他のリアルロボットアニメにおいては、もちろん揺り戻しもありつつも、こうした主題系が知ってか知らずか継承されており、『水星の魔女』もその例に漏れない。おそらくこれは非常に意識的になされていると思われるが、そこでは家父長制批判が「ただ家父長を断罪すればよいというわけではない」という認識とともになされている。実際問題として、ただ家父長を子が打倒するだけなら、その子が新しい家(父)長におさまり、また同じことを繰り返すだけである。『水星の魔女』の主人公たちは(もちろん「自分たちは次世代を作らない」という形をとらずに?)、そこを何としても避けようとしている。

 暫定的な結論として言えば、『水星の魔女』はクィアアニメでもなければフェミニズムアニメでもない、さりとてそれらに敵対的というわけでもない。ただ家父長制批判としては非常にデリケートだがいい線いってるのではないかと思う。

 

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哲学の位置について私見

「人の生きづらさについて社会学はそれを生み出す社会体制・環境のメカニズムを明らかにし、その変革を通じて何とかしようとするし、心理学は個人の心身にはたらきかけて何とかしようとするけど哲学はどうなのか?」と問われて「臨床哲学とか応用倫理学だとあまり変わらないけど、本来の意味での哲学ならどうかというと、実は社会学も心理学も暗黙の裡に、社会体制・環境にせよ個人の心身にせよ変わりうるもの、変えることができるものと考えていて、そこに介入して変えることもできるしまた変えないこともできると考えている。というよりその前提を外すと成り立たない。しかし哲学の場合「変えようがない・どうしようもない・どうにもならない」という可能性にまで広げて考えることができる。実証科学とそれを前提とした技術論・政策論にはそれは禁じられている。」と答えてみた。
哲学だと決定論や運命論も考えてよいけど、科学では実はだめだ(実験もできなくなる)、という風に理解していただいてもよいかと。
ではそういう哲学が世の中的に実証科学と違う受け止められ方をするかというと、実のところ応用倫理学では実証科学と変わらずに実践的指針を出しちゃうし、仮に決定論や運命論の立場から何か言っても、それもまたある種「セラピー」として受容されてしまって、普通の臨床哲学とか自己啓発と結果的には変わらないのだと思う。
ではそこに違いがないかと言えば決してそんなことはないのだが、世俗的にはないも同然なのではないか。