『社会学入門・中級編』より「はじめに」
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本書は『社会学入門・中級編』という微妙なタイトルをつけておりますが、これには理由があります。
私は十年ほど前に『社会学入門』(NHK出版)(稲葉[2009])という本を出しました。これは基本的には理論に焦点を当てた本ですが、その冒頭に「そもそもなぜ理論が必要か」を説明する章を置きました。その趣旨は簡単に言えば「社会学の実証研究の目標は、社会現象の中の因果関係の分析であるが、因果関係それ自体は直接観察できるものではなく、あくまでも研究者が理論的作業によって「仮説」として想定するしかない。そうした理論的仮説は複数立てることが可能で、観察された現実(社会現象の中に発見される相関関係など)をどの程度うまく説明できるかで、それらの間の優劣が決まってくる」というものでした。つまり、因果推論に焦点を当てつつ、理論というよりも、理論と実証を包括したリサーチ・ストラテジー全体について簡単に説明しようとするものでした。それは私の勤務先の社会学科におけるカリキュラム改革の動向とも呼応するものでしたし、私個人の、ことに大学院での導入教育の主題でもありました。社会学という学問への導入教育の焦点は、理論・学説の紹介から、リサーチ・ストラテジーへと移行しつつあったのです。これはもちろん今般の日本の大学教育における「アクティブ・ラーニング」の奨励と無関係ではありません。しかしながら長い目で見れば、それに先立ち21世紀初頭から既にこのトレンドは日本の社会学教育の中に確実に存在していたと思われます。
稲葉[2009]自体はリサーチ・ストラテジーの著作とは到底言えず、理論・学説史に焦点を当てたものでしたが、その結論は逆説的にも「社会学における一般理論の不可能性」でした。にもかかわらず社会学が学問としてのアイデンティティを保ちうるとしたら、理論それ自体よりも、理論と実証を包括するリサーチ・ストラテジーに求めるしかない、という主張をそこに読み取ることは、必ずしも不可能ではないでしょう。しかしながら稲葉[2009]ではまだそれを積極的に主張するところまでは行っていません。行きがかりで社会学科の禄を食み、社会学の導入教育にも従事していたとはいえ、社会学者ではない、とりわけ実証研究に従事していない身としては、そこまで言い切る勇気もなかった、からでもあります。
しかしながら、そろそろそうも言っておれなくなりました。というのももう一冊の『社会学入門』(有斐閣)が、筒井淳也・前田泰樹の共著で、まさにこのリサーチ・ストラテジーに焦点を当てた形で上梓されたからです(筒井・前田[2017])。
私が今書いている本書は、稲葉[2009]と、筒井・前田[2017]と双方の続編として位置付けられています。私の『入門』で残された宿題を片付けたうえで、筒井・前田の『入門』の主題を私なりに消化して敷衍すること。それが本書の主題です。基本的な問題意識は以下でも簡単に説明しますが、岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(有斐閣)でも提示しておきました(岸・北田・筒井・稲葉[2018])。
*本書が想定する読者層、ならびに読み方について
前著である稲葉[2009]や筒井・前田[2017]はともに大学の学部生を想定した入門書ですが、稲葉[2009]がどちらかというと読み物としての自己完結性を狙っていたのに対して、筒井・前田[2017]は実際の授業で使う副読本としての性格が強かったかと思います。これはどちらの方がよいとか正しいとかいう問題ではなく、目標の違いです。
本来ある学問の教育――教科書を読ませることを含めて――の目標は、ただ単に知識を詰め込むことではなく、それを実地に使えるようにすることです。「知識」という言葉の使い方にあいまいさがありますのでもう少し正確に言いなおすと、文章で表現できる「命題知」などのknow-whatではなく、具体的な体の動かし方、仕事の仕方といったknow-howの方が主眼だといってよいでしょう。言葉やマニュアルによってknow-howを伝えられても、それを動作、行動として実現できなければ意味がありません(know-whatとknow-howについては例えば戸田山[2002])。ですから数学でも物理学でも経済学でも法律学でも、教科書を読ませ、講義を聞かせるだけではなく、問題演習をさせます。社会学の場合も、理論の場合はただ本を読ませ、講義を聞かせるだけで終わりがちですが、調査教育においては、しっかりと実習をさせます。筒井・前田[2017]はそうした教育全体を強く意識した構成となっています。
本書は相変わらずある程度自己完結した読み物であることを志向していますが、究極的な目標はknow-howの教育にあります。とは言え実際には「今、社会学を学ぶにあたっては、どのようなknow-howが大切か、それはなぜか」というknow-whatに照準を合わせたものになってしまってはいますが。その上で、本書を読み終えた後の課題や、逆に本書を読み進めるために、もし欠けていたならば途中で補うべき知識を意図的に示唆する(が丸ごとは提示しない)ことを心がけています。
その上で想定する読者対象を言いますと、少なくとも自分で問題意識をもって卒論を書こうと思っている大学学部上級生、より重点的には大学院初級――修士くらいのレベルの人を念頭に置いています。つまり、知識――命題知を詰め込むだけでは満足できず、自分なりの研究による知識生産をしたい人、しなければならない人を主たる読者として考えています。そして実際、本書の土台には、私自身の勤務先での大学院修士1年生に対する「基礎演習」の経験があります。
前著である稲葉[2009]は、学部初級の学生相手の入門講義をもとにできあがったものですが、公刊後はあちこちから「入門じゃない」「大学院生向け入門だろ」「再入門だ」といったお叱りを受けました。実際問題として、狭い意味での社会学の話を意図的に半分しかしなかったあの本は、学部生向きというより、そこそこ教養と意欲のある一般読書人向きの本になってしまっていたかもしれません。個人的に非常に面白かったのは、とある名門進学校から有名国立大学に進んだ青年から「高校生の時に稲葉[2009]を読んで社会学専攻を断念し、経済学部に進学することにしました」と言われたことです。ある意味非常に「正しい」読まれ方をしたと言えましょう。その一方で例えば社会学史研究者の三谷武司は、後戻りがきかない立場から「なんかよくわかんないまま電車に乗っちゃった人が、行く先に不安を覚え、本書を読んでそれが杞憂でないことを知って腹をくくる、という感じか。学部生には酷な気がするけど、学部ごと社会学だったりすると、早いうちに性根据える必要があるのかも。」(http://d.hatena.ne.jp/takemita/20090726/p4)という、これもまた大変興味深いコメントをしています。
今回の本書もまた「社会学の話は半分しかしない」ようにして、学問共同体の中での社会学の位置づけに腐心しましたが、前著においてはそれをどちらかというと学問の鑑賞者のために行った一方で、本書ではそれを、もはや後戻りのきかない学問の実践者のためにやろうと思っています。そこで本書は『中級編』を名乗ることになりました。なぜ「上級編」ではないかというと、本書に続いて、特定の方法論的立場を踏まえて、より積極的なリサーチ・ストラテジーを提示した北田暁大の『実況中継・社会学』(有斐閣)(北田[2019])が出るはずだからです。
それでは、本題に入ります。