『モダンのクールダウン』補遺、のようなもの

 細かい解説は抜きです。
=========

 「イエスの福音が届かなかったとしたら?」という恐れにはどのような意味があるのだろうか?
 もちろんここで問題は「イエス」でなくてもよいのだが、それでもイエスにはある種の特権性がある。「普遍性を僭称する特殊な教説」としての〈キリスト教〉の特殊性がまさに神(普遍性)にして人(特殊性、個別性)であるイエスに集約されているからだ。
 イエスの福音は幸運にも私のところまで届いた。素朴な信仰の立場はこの事実を以てイエスの福音の普遍性やら必然性やらを信じるし、そのことによって現在の自分の存在の必然性を信じ肯定する。しかしながらもう少し真面目に考えると、イエスの福音が私のところにまで届いたこと自体が単なる偶然の所産であり、そんなことは起きなかったかもしれない。イエスの福音は私の時代まで生き延びながら私はそれとすれ違ってしまったかもしれないし、私の時代に到達する前に滅びてしまったかもしれないし、そもそもイエスが福音などもたらさずに無名のうちに死んでしまった可能性さえある。
 しかしそうした可能性をまじめに考えたところで何になるのか? そのことによっていらぬ不安を抱える必要などあるのか? 現に私のところに福音が届いた幸運を寿げばよいだけのことではないのか? むろんそれで安心する健全な立場もあるが、不安を止めることができない人もいる。すなわち、イエスの福音が普遍的で必然的でなければ安心できない人もいる。それにしてもなぜ不安となるのか? ひとつの解釈としては、福音が普遍的で必然的でなければ、いまここにいる私に福音が届いていても、将来それが離れて行ってしまうかもしれない、あるいは私以外の人間には結局届かない(それゆえ普遍性が裏切られる)、という不安がそこに残る、というものがあるだろう。まあ不安の種はいろいろあるだろうから、とりあえず措いておこう。
 逆にイエスの福音の偶然性によってこそ安心してしまうタイプの人々も、そのような信仰もまた考えられる。たまたま私たちのもとに幸運にもその福音が届くことになったイエス以外にも、この世には、歴史上はイエスのような人々が実はたくさんおり、それぞれに活動していたのだが、不幸にしてその功業は忘れ去られてしまっただけなのだ、と。すなわち、イエス個人の偶然性、特殊性は、イエス的なるもの(その背後の神)の普遍性によって裏打ちされているのだ、と。
 しかしそれでは安心できない人もやはりいる。というより「普遍性を僭称する特殊な教説」としての〈キリスト教〉の厄介さこそが、そういう不安を生み出したと言ってもよい。すなわち、〈キリスト教〉によればイエスは単なる(複数存在しうる)神の使いではなく、同時にまた唯一神そのものでもあるからだ。普遍的かつ個性的なイエスの存在の深みは、「イエス的なるもの」の普遍性によっては掬い取れない。普遍的かつ特殊的かつ個別的なイエスへの信仰(そして単に普遍的な「イエス的なるもの」の拒絶)が捨てがたいかと言えば、それがちょうど私自身の唯一性に対応し、それを裏打ちしてくれるように思われるからだ。イエス個人が単に「イエス的なるもの」の一例にしか過ぎないのであれば、私の唯一性もまたほとんど意味のないものに帰してしまうように思われよう。
 これに対して「そんなイエスという特殊な個人からしか発しえなかった福音などというものは決して普遍的なものではない(そんな普遍性は僭称に過ぎない)」という批判は無論ありうる。イエスの福音が真に普遍的な意義を持つのであれば、それは他のどこかで誰かが思いついていても全く不思議はないはずだ。個別の歴史的出来事は、いずれも偶然的ないしせいぜい蓋然的なものに過ぎない。そう見切ることがむしろ健全なのであろう。しかしそれは真に深く敬虔なイエスの徒にはついに届かない批判であるようにも思われる。


モダンのクールダウン

モダンのクールダウン