本日の講義(社会学史)をもとに

 岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎社会学はどこから来てどこへ行くのか』という本は日本の社会学の現状についてのよもやま話であり、「社会学は地味な学問なんだから地味にやろうよ」というメッセージを派手にやっているという変な本ですが、その背景について少し考えてみましょう。
 ひとつにはこれが著者たちをデフォルメしたファンシーなイラストを表紙にしたうえに、缶バッジなどのノベルティまで展開する下品な販促を仕掛けている、という事実の含意です。本書の版元である有斐閣は元来、法律書を中心に人文社会科学の学術書を手広く展開する老舗出版社であり、ひどくお堅いイメージがありますが、近年では重心が法律書学術書からより広い分野の教科書、入門書へとシフトし、合わせて全体としてライト化、ポップ化の印象があります。よく知られているところでは西洋貴族の紋章風の、獅子と鷲をあしらった社章を「シッシーとワッシー」とゆるキャラ化し、更に看板商品『ポケット六法』の言い間違いから生まれたマスコットキャラ「ろけっとぽっぽー」も広範にノベルティグッズ展開しています。『どこどこ』、あるいはまた、お下劣が売り物のパロディ漫画の大家田中圭一を表紙に起用した井手英策・宇野重規・坂井豊貴・松沢裕作『大人のための社会科』もまた、このような流れの中に位置するとみてよいでしょう。
 もちろんこうしたライト化、ポップ化の流れは有斐閣だけのことではありません。『どこどこ』でも指摘されている通り、とりあえず社会学に限ったとしても、教科書のライト化、ポップ化、フレンドリー化は20世紀末以降の一貫した傾向です。社会学でその口火を切ったのは、柴門ふみのイラストを表紙に用いた新曜社の『ジェンダー社会学』(江原由美子・長谷川公一・山田昌弘・天木志保美・安川一・伊藤るり)ですが、パッケージングのみならず内容、スタイルにおいても、教授者目線よりも学習者目線を本位とした、読者が一人で読みやすく、自分の学習・研究に使いやすいものが目指されていました。このようなストラテジーは、以降の多くの社会学教科書に共有されています。その当時社会学研究者・学生にも広く読まれるようになっていたミシェル・フーコーの言葉づかいを真似るならば「道具箱」としてのテキストが目指されています。
 ただ、このライト化、ポップ化の始まった時代である80年代末から90年代初めという時期と、その約30年後、21世紀に入って20年近くが経過し、このようなポップでライトな教科書が当たり前となった現在とでは、社会学の状況も随分と様変わりしています。『どこどこ』、特に巻頭の岸・北田対談(第1章)ではその問題について随分と力を入れて語られています。その同じ問題に対して、私なりに振り返ってまとめるとこういうことになります。すなわち、

 2009年の私の教科書『社会学入門』でも示した通り、現代の社会学には、社会学者みんなの共通基盤としての原理論、一般理論、つまりは社会(的なる何ものか、何事か)という対象の基本的なメカニズムをシミュレートするモデルのようなものがない。では何が社会学の学問としての一体性を担保しているのか? 稲葉『入門』で匂わせたのは、ひとつには「来るべき一般理論への願望/あるいは失われた一般理論への郷愁」という理論ならぬ感情がその根拠ではないか、という解釈であり、いまひとつは、理論よりも実証研究の技法、ストラテジーの共有こそが、社会学者の間の連帯感を辛うじて支えているのではないか、という可能性である。
 2017年の教科書、筒井淳也・前田泰樹『社会学入門』が提示したのは後者の可能性であり、更に踏み込むならば、社会調査における伝統的な「質的/量的」の分業関係に対する新たなパースペクティヴである。2019年刊行予定の稲葉『社会学入門・中級編』はそれを正面から主題化しているが、それについては措いておこう。現代の日本の社会学における、学問的アイデンティティの基礎にあるのは「社会学とは社会の実態調査を基盤とする学問である」という了解であるが、それを現在一線で支えている研究者たちの少なからずが知的に物心がついたのはまさに先の『ジェンダー社会学』の時代であった。そしてこの時代における日本の社会学は、いわゆる「現代思想」、ポストモダン哲学、フレンチ・セオリー(もちろんフーコーもその中に数え入れられる)の強い影響を受けた、理論的百花斉放の時代であった。筒井はどうか知らないが、稲葉も岸も北田も、まさにその時代の空気をいっぱいに吸い込み、その時代ならではの「黒歴史」を抱え込んでいる。
 年来指摘される通り、現代の日本における社会学のパブリックイメージ「華麗な理論装置を駆使しての常識破壊ゲーム」を形作ったのはこの百花斉放時代の業績であり、それを踏まえての一部の論客たちによる論壇・ジャーナリズムでの評論活動である。代表的にはもちろん、団塊の世代では上野千鶴子であり、その下のもう一つのヤマ、オタク第一世代としては大澤真幸宮台真司である。小室直樹ゼミナール、そしていまも続く「言語研究会」を率いて大澤、宮台らに薫陶を与えた橋爪大三郎は上野と同じく団塊世代、大学闘争経験者である。いま少し学術的なレベルでのベンチマークを挙げるならば、やはり大学闘争世代の内田隆三による「〈構造主義〉以後の社会学的課題」(『思想』676号、1980年)だろう。
 しかしながらここで考えておかねばならないのは、この80年代、ポストモダニズムの洗礼を受けつつ若き理論社会学者たちが目指したのは何だったのか、彼らは何と戦っていたのか、である。内田の「課題」、更にそれを敷衍した『消費社会と権力』(1987年)にせよ、あるいは大澤のいまだ未完の大作『身体の比較社会学』にせよ、その手本にして対決の相手は、社会史的資料を用いての質的・量的両面のデータ解析に恐るべき冴えを見せ、後世のポピュラーカルチャー研究の先駆ともいえる仕事を残していた見田宗介が、1970年代にはいって真木悠介の筆名を用いてものした理論的作業――『現代社会の存立構造』に結実する、マルクス資本論』の社会学基礎理論への組み換え作業と、『気流の鳴る音』『時間の比較社会学』に代表される、人間の基礎的体験・想像力の比較社会学だった。そしてこれら見田の理論的作業は、おそらくは当時の日本の理論社会学のメインストリームに対するカウンターを意図していた。すなわち、東京大学出版会の『社会学講座』(見田はこの講座で『社会意識論』の編集を担当している)の第1巻『理論社会学』に結実した、タルコット・パーソンズの構造機能分析を継承しようとする社会システム論である。SSMの基礎を築き、安田三郎と並び日本における社会階層・移動の計量分析のリーダーでもあった富永健一、野人小室直樹、そして独自の「情報処理―資源処理パラダイム」でもって社会システムを超えたシステムの一般理論までを構想する吉田民人は、この巻に寄稿した論文において、それぞれに社会システム論を動学化し、社会変動の一般理論を構築するという野心をあらわにしていた。
 すなわち1970年代という時代は、日本の理論社会学においては、一方では構造機能主義を軸とした社会システム論、他方では見田の仕事が代表するような、ポスト・スターリンのニューレフトや、あるいは創成期のエコロジー運動などのカウンターカルチャーを踏まえたオルタナティヴ社会学がぶつかり合う活気ある時代だった。80年代の百花斉放は、当然その流れを汲んでいる。しかしながら70年代と80年代とでは、決定的な違いがある。70年代には理論社会学にいわば「正統」があった。構造機能主義的社会システム論を、そのような「正統」として作り上げようという熱気が一方にあり、他方、マルクス主義の影響下にあった社会学者も、見田のようなオルタナティヴの影響の強い論者から、もう少し守旧派まで含めて、東側が否定するマルクス主義社会学というものが可能である、という思いを強く持っており、これもまた今一つの「正統」候補としての可能性があった。
 しかしながら、その理由ははっきりとはわからないが、80年代半ば以降の「百花斉放」の時代には、そのような理論的正統は見失われている。そのような観点からすれば、フレンチ・セオリーの、あるいは「自己組織システム」といった意匠を駆使してのこの時代の華麗な理論的取り組みは、一種の悲鳴のようにも聞こえてくる。ニューレフトやカウンターカルチャーの影響を受け、ともすれば政治的な色彩を帯び、しばしば社会運動の同伴者となった――ウィメンズ・リブの波が引いた後、「フェミニズム」の語とともに前面に出てきたジェンダー社会学もまた、当然にこの流れを汲んでいる――オルタナティヴ社会学においては、相対的に状況はましだったかもしれないが、こうしたオルタナティヴ社会学が挑戦すべき相手の姿が、もはやどこにも見当たらない、という状況が、90年代には訪れていた。
 なぜこのようなことになったのか? 明確な理由は不明である。たとえば80年代には、橋爪大三郎が数理社会学に取り組む同門の志田基与師、恒松直幸とともに富永・小室・吉田の社会システム動学の内在的批判を試み、彼らの構想する社会変動の一般理論は、論理的に一貫したものとしては作りえない、という不可能性定理を提出した(危機に立つ構造-機能理論)。しかしながらこの批判それ自体が決定打となったという形跡はない。両陣営の間に生産的な論争はないまま、理論的正統の樹立への衝迫自体が消え去ってしまうのである。(続く?)

 

 

社会学はどこから来てどこへ行くのか

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社会学はどこから来てどこへ行くのか

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ジェンダーの社会学―女たち/男たちの世界

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消費社会と権力

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社会学講座〈1〉理論社会学 (1974年)

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