「社会科学基礎論に関する2,3の話題提供」@東大社会学 メモ

 ここまで「全体性」という語をやや不用意に用いてきたので、すこし反省してみよう。
 通常の社会科学の理論的探究においては、人間性を所与(基本法則と初期条件)、そして説明変数のレベルに置き、社会的現象をそこから導き出される被説明変数と置くことが多い。それに対して社会学においては、人間性を被説明変数として、それを説明する条件として社会的環境を設定することが多かった。しかしある時期までの理論社会学はそれにとどまることなく、その社会的環境の変容可能性を説明する更なるレベルを想定し、そこでの法則性の探究を志して挫折した――概ねこのような図式を、ここまで提示してきた。
 この講義の文脈での「全体性」の探究とは、具体的には、「社会的環境の変容可能性」の探究、その可能性の幅――空間を知り尽くそうとすること、としておこう。しかしそれは、「変容可能性を支配する一般法則」の探究という形では不可能――とは言わないまでも望み薄であり、回顧的、遡及的な形でなされるべきである、とここまで論じてきた。社会学におけるミシェル・フーコーインパクトによるいわゆる「言説分析」の隆盛は上記のごとき事情によるものであろう。またニクラス・ルーマンの仕事も、一面では「自己組織システム」「オートポイエーシス」のスローガンのもと、「変容可能性を支配する一般法則」の探究を目指すものと解釈できるが、他方「ゼマンティーク」の名のもとになされる知識社会学的探究は、一般法則の探究とは別の仕方での「全体性」の遡及的探究と解釈することができる。
 そのような「全体性」の探究は、探究主体の現在がそこには属しておらず、そこには干渉できないからこそ可能になる、というのが、この講義において前提とされている立場である。その立場からは、現在、そして未来を含めての「全体性」は、そこに探究主体をも含めたものであり、対象との相互干渉の可能性が排除できない以上、厳密には不可能である、とされる。では「厳密に」ではなく「近似的に」あるいは「実質的にvirtually」であればどうだろうか? 
 ひとつの可能性としては、探究主体が無名で卑小であり、その存在のインパクトが実質的にもまた意識のレベルでもきわめて些細なものにとどまる限りは、「全体性」の探究は、「実質的には」可能であるかもしれない。経済学の知見の企業戦略への応用などは、このようなスタンスからなされていると考えることができる。いま一つは、探究主体が積極的に対象から距離を取り、いわば「ギュゲスの指輪」を身に着けることである。政策科学のスタンスとは、第一次的には、このようなものである。
 このようなスタンスはともに、ユルゲン・ハーバーマスの用語法に従えば「技術的理性」と呼ぶことができるだろう。後者は狭い意味での「テクノクラシー」の立場である。しかしながら一見それとは対極的な前者もまた、我々の立場からすれば同様に「技術的理性」のそれであるといえる。誤解を恐れずに言えば、前者のスタンスとは、市民社会における自由な私人としての市民のそれであり、後者のスタンスとは、政策当局のそれである。いずれにせよ、政治的主体としての公民のそれではない。
 市民社会における公民としての市民のスタンスは、ハーバーマス風に言えば「コミュニケーション的理性」のそれであると言えよう。しかしそこでは「全体性」はその只中を生きるものであって、一方的に認識する対象ではありえない。
 だが、いずれにせよ、「全体性」とはそれを一挙的に見まわすことができるような対象ではなく、その存在を想定することによってしか有意味な認識や実践ができなくなるような「地平」のことである。