トマ・ピケティ『21世紀の資本』の経済学史・社会思想史的地位付け 稲葉振一郎
20150403
@荻窪ベルベットサン
1 20世紀末から21世紀初頭にかけての経済的格差・不平等を巡る議論の焦点
*事実発見
・先進諸国において――「クズネッツの逆U字」が終わり、国内的格差の拡大傾向? 主因は賃金格差? 更にその背後には技術革新(=技能偏向的技術変化SBTC)による学歴格差とグローバル化による「中抜き」?
・グローバルには――産業革命以降拡大一方の南北格差が、ここにきて徐々に縮まりつつある? 中進国のキャッチアップ 主因はグローバル化?
・平等度が高い方が経済成長率も高い?
*理論的考察
・先進経済の国内的格差を解明するための理論的試み
SBTC以外に――
分配と成長の関係についての理論的考察が増える。
古典派的伝統(スミスからマルクスまで)においては、階級間の富・所得分配がストレートに生産・資本蓄積・経済成長に影響を与えると考えられていた。
一方新古典派においては、自由な市場が存在する下では分配問題と生産問題を切り離せると想定してきた。
しかし20世紀末以降、ある意味で古典派的な問題意識が復活しつつある。
古典派的想定(全員がではないが)――資本家により多く分配された方が、成長率は高くなる。(労働者、地主は貯蓄=投資しないという想定、また資本市場の不完全性?)
新古典的想定――ある程度所得水準が高くなり、かつ資本市場が発達すれば、労働者も貯蓄=投資するようになるから、古典派的想定は崩れ、分配と生産・成長は分離される。分配がどうあれ、市場が効率的であれば、資源は完全雇用され、最大の成長が実現される。
――はずなのだが、どうも平等度と成長率の間に正の相関があるっぽい。なぜ?
解釈1:(Alesina & Rodrik)一般に、民主政治の下での再分配が市場を歪ませ、成長率を下げる。もともと富の分配が不平等な経済社会においては、その歪曲効果がさらに大きい。
解釈2:実はもともと市場は不完全なので(正の外部性とか、資本市場の不完備とか)、実は資源は十分効率的に活用されていない。「不完全な市場をより完全化する」という対策の方が経済学的には「本筋」かもしれないが、実際には政策的再分配によってかえって資源の効率的配分が可能になる。(実例:貧困者の子弟に学費をいちいち銀行から借りさせるより、学費一括無料化の方が実は効率的でありうる。)
要するに、ある種の投資――特に人的投資や技術革新投資については、自由な市場にまかせない方がよいこともある、という発想。(Galor, Benabou他)
このような「政治経済学」的発想は、ある意味で古典派への回帰ではあるが、それでも古典派とは異なり、ここで問題となっているのは資産格差より所得格差――あるいは、正確に言えば、所得の源泉が資産であるならば所得格差は当然(人的資本を含めた)資産格差を意味するので、資産の質的格差(物的資産・金融資産と人的資本の格差)ではなく、あくまで量的な格差に過ぎない。
・グローバル格差を解明するための理論的枠組み
19世紀以降世界経済はたしかにグローバル化している(主要な貿易商品について世界的に価格が一致していくし、要素価格比率も収斂していく)にもかかわらず、生産力・生活水準は長らく収斂しなかったのは、なぜか?
解釈1 グローバル経済の側から――
商品市場はグローバル化しても、要素市場――資本市場と労働市場はなかなかグローバル化しなかった。
資本市場――フェルドシュタイン=堀岡のパラドックス
労働市場――20世紀中葉以降、移民に強力な制限がかかる
「人的資本」に対しては資本市場がうまくはたらかない
解釈2 政治的・制度的要因――
革新を伴う自由な市場経済は、「法の支配」の下でしか根付かない。
多くの途上国(旧植民地地域)は、「法の支配」の対極――恣意的独裁か無政府状態
「法の支配」は短期的には「節度ある独裁」の下でも可能だが、長期的には共和主義ないし自由民主主義の下でしか根付かない。(Acemoglu & Robinson他)
2 ピケティ『21世紀の資本』のどこが新しいか(そして新しくないか)
90年代には早熟な理論家であった(AcemogluやGalor同様、不平等の理論モデルに取り組んでいた)ピケティだったが、なぜか帰仏して大御所Atkinsonらと組んで資料の掘り起しに取り組むようになった。『資本』に集約される計量研究においては、理論モデルの提出は後回しにしてとりあえず事実発見に専心している。
*事実発見――従来の研究と対比して
先進諸国の国内格差に集中。
中層・下層よりも上層・トップ層に注目。
労働所得(賃金)格差よりも資産所得(利子・配当・地代)格差に、更には所得格差よりも富(資産)格差に注目。
――つまり資産の質的格差=物的・金融資産・対・人的資本の格差への関心がクローズアップされている。より強い意味での古典派への回帰。
*理論的には?
ただ単に富(資産)分配に注目するのみならず、その生産への効果――つまり分配と成長の関係についてもピケティは大いに思うところがあるようである。しかしながらそのメカニズムを解明する理論的枠組みは今のところ提供されない。90年代の彼自身の理論的作業との関係も明らかとはされていない。
例の「r>g」もただ経験的事実が提示されるのみである。
ちなみにr>gの理論的背景は幾通りでも考えられる。(どういう場合に成立しどういう場合に成立しないかはいくらでも言える。)
ポジティブな理論的仮説の提示はないが、従来の理論への批判であればもちろんある――クズネッツ仮説への疑義。
クズネッツ自身は積極的に「これだ!」という理論的解釈を提出してはいない。多様な理論的解釈があるのみならず、実証的な反証もいろいろある。
ただ、1で見たような20世紀末の逆U字の逆転現象を指摘し問題化する研究の多くは、大体において、20世紀中葉までの重化学工業主導下の成長の下では、OJT主体の現場での人的資本の均等な蓄積を、そして終盤以降はハイテク化に伴う学歴要因の重要化に伴う、人的資本の不均等蓄積をという風に、技術と市場メカニズムの論理で20世紀の所得分配の消長を解釈する傾向があったように思われる。
――これに対して、ピケティは資本主義市場経済には一貫して所得の均等化効果はなく、20世紀の格差縮小は基本的に福祉国家的再分配のおかげだ、と考える。
3 個人的な理論的補足
自由な市場経済はそもそも所得・富の分配にどのような効果を与えるのか、実はまだよくわかっていない?
新古典派は要素に関する収穫逓減を想定する。ということは、長期的にはすべての生産単位で資本労働比率は均等化するはずである。
ここで仮に生産単位が自営業個人であり、なおかつ資本市場も労働市場も存在しなければ、資産分配――所得分配も均等化することになる。(少ない資本で出発した事業者も、コツコツ貯蓄=投資を続けてやがて最適水準に達する。)――グローバルな格差縮小の背後にあるメカニズムに、このような解釈を与えられなくもないだろう。(Stiglitz, Barro他)
――しかしまさに新古典派的に言えば、生産単位が自営業個人である、との想定は非現実的ではないか?
資本市場が(人的資本のそれも含めて)完全であれば、資本収益率は均等化する。その場合は所得の格差は資産格差にきれいに比例し、長期的にも持続する。――これはまさにピケティ的状況ではないか? (Chatterjee, Caselli & Ventura他)
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私のしゃべり、マイクを離してるとほとんど聞こえません。申し訳ない。