「公共政策論」講義メモ

 公共領域、公共空間、「市民的公共圏」としての都市と都市間交通網を無視するわけにはいかないが、ハーバーマスの視点はそこにはあまり向けられない。ハーバーマスが重視するのは、そしておそらくはロックの場合もそうなのだろうが、文字言語を介したコミュニケーションのネットワークである。古典古代の市民社会においてももちろん文字は存在したが、そこはいまだ基本的に写本の世界であり、活字による大量印刷は存在しなかった。ロックはすでにグーテンベルグ以降の存在であり、ロックの哲学において「世論」はキー概念のひとつである。そして18、19世紀に焦点を当てるハーバーマスにおいては、消費財、あるいは産業となった文学と、何よりも新聞、ジャーナリズムがクローズアップされる。「文芸的公共圏」なる語が用いられるゆえんである。
 もちろんここで我々はベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」を支えるインフラストラクチャーとしての「出版資本主義」を想起すべきである。「想像の共同体」としてのナショナリティの基盤としては、日常的な生活文化だけでも、また国家の法制と官僚機構だけでも不十分であり、大量印刷の流通、新聞や国民文学といった中間レベルでの具体的なインフラが必要なのである。


 非常におおざっぱに言えば市民社会とは財産所有者たちの社会であり、その開かれたネットワークである。「「開かれた」とは言っても実際には、財産を所有しない者にとっては開かれてはいないのではないか?」という疑問もありうるだろう。それに対する答えは、「あるレベルでは然り、あるレベルでは否」である。
 少し一足飛びになるが、単なる財産所有者の共存状態、という規定から一歩踏み出して、所有された財産が取引される市場としての市民社会について考えてみよう。市場に出されているものは何であれ、対価を支払えば誰でも手に入れることができる。これは誰にでも市場が開かれているということか、といえばやや問題は複雑である。「対価を支払わなければ手に入れられない」のであればそれは「閉じられている」という印象は禁じ得ないかもしれない。しかしながら、人は対価を支払うことができず、それを入手することはできなくとも、それを認識することはできる。その限りでやはり市場は開かれた場所である。財物は存在していてもその存在が公開され、周知されていなければ、「開かれている」とは言えない。
 すなわち、「開かれている」、あるいは公的であるということにはいくつかの水準がある。公道や公共の広場がそうであるように、誰でも無償で利用できるという意味合いで公的に「開かれている」もの、公共圏のインフラストラクチャー、経済学風に言えば「公共財」と、一定の手順を踏み、しかるべき対価を払って初めて入手したりアクセスしたりできるもの、典型的には商品のような意味あいでそうであるものとは、当然に区別されねばならない。後者はまたある意味では私的に「閉じられたもの」であるが、非常に厳密な意味でのプライバシー、その存在自体が秘匿される、他者の認識から隠されるものとは区別されねばならない。


 さて上の意味でのインフラ、ことに「公開された私有財産」へのアクセスを可能とするインフラストラクチャーという観点から見たとき、「文芸的公共圏」は非常に意義深いものとなる。「文芸的公共圏」とは文芸活動のネットワークであり、文芸作品を商品取引その他の仕方で流通させるインフラストラクチャーとしてまずはとらえたくなるが、実際にはそれだけでは不十分である。そこにおいて流通する文芸作品それ自体が、「公開された私有財産」であると同時にそれ以上の何者かであるからだ。文芸作品においては美術作品とは異なり、オリジナルとコピーの区別が意味をほぼなさない。それゆえ文芸作品は商品として取引される場合にも、一点ものの資産としての性格が強い美術作品とは異なって、一つ一つのパッケージ(それはまさにコピーである)はほとんど消費財として流通し、きわめて安価であるし、複製、コピーも比較的容易である。すなわち、文芸作品は公共財的な性格を非常に強く持つ。
 この点でさらに興味深いのは、20世紀におけるテレビ、ラジオの商業放送である。長い間そこにおけるコンテンツは、商品として流通することができなかった。そこでは、狭い意味でのCMだけではなく、放送されるすべてが広告だったのである。


公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

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