2011年1月17日付学科主任挨拶「入試の意義」

http://soc.meijigakuin.ac.jp/gakka/?cat=36
はいずれ消えますから。

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 お久しぶりです。
 本来であれば今日は、年度の初頭にアップしたご挨拶でお約束していたお話の続きをするべきなのですが、期間も空きすぎましたし、ちょうど入試シーズンに本格的に突入いたしましたので、受験生の皆様に「そもそもなぜ大学は入学試験をするのか」についてお話ししておきたいと思います。
大学全入時代」に入ったといわれて久しく、受験生の皆さんもたとえば「Fランク大学」、つまり志願者の数が入学定員を下回ってしまって、入学を希望しさえすれば確実に入学できる大学も世の中にはあることはご存じのことと思います。つまり、当たり前の話ですが、大学その他の学校において、入学試験が行われるのは、入学定員を志願者の数が大きく上回ってしまって、入学希望者全員を受け入れることができない場合なのです。つまり入学試験が行われるのは、必ずしも当たり前のことではないのです。「大学全入時代」とは、個々の大学についてはともかく、大学全体の入学定員を考えたときに、大学入学を希望する人全員の数をそれが下回りつつある、ということを意味するのです。
 しかしそれにしてもなぜ、大学その他の学校は、多くの産業においてはしばしば当たり前に行われているように、「お客様のご希望にお応えして、サービスを拡大する」ことをしないのでしょうか? つまり、入学希望者が入学定員を上回っているのであれば、それに合わせて入学定員を増やす、ということをしないのでしょうか?
 −−実は大学はそうしています。長い目で見れば、日本において大学の数は増え続け、一つ一つの大学の定員もおおむね上り調子で来ているのです。ただしそれは長い時間をかけてのことであって、その年その年に一発勝負をかけてくる、ひとりひとりの受験生にとってはかかわりのない話です。
 大学(その他の学校)も、たくさんの受験生が自校を志願してくれると予想すると、組織を拡張し、スタッフを増強し、設備を充実させて、より多くの学生を受け入れられるようにしていきます。この点、お客が増えて売り上げ増が期待できれば、生産を増やすメーカーと変わりません。ただし大学の場合、入学定員の増強は急にはできません。新しい校舎を建てるにはお金も時間も必要です。組織改革にも、新しいスタッフの採用にも、たくさんの会議に書類作り、と相応の手間暇がかかります。今年の入学志願者は多かったから、それに合わせて今年の定員を一気に増やしてしまおう、なんてことはできません。1割とか2割ならまだどうにかなっても、2倍3倍なんて、絶対にできません。もしそんなことをすれば、授業は狭い教室にすし詰めのマンモス講義、図書館も学食もいつも満員でまともに使えない、先生の数も学生数に比べてあまりにも少なく、ろくに指導も相談もできない――という風に、教育サービスの質が低下してしまいます。(実は1960年代後半の日本の大学紛争の背景にも、こうした問題が存在していました。)
 世の中の大学改革案の中には、「とりあえず大学は志願者全員を受け入れて、平常の授業で厳しい試験を行って、ばしばし落第者、不合格者を出すことで定員問題を解決すればよい」といったものもありますが、あまりうまくいかないと思います。仮に不合格、落第をたくさん出したところで、不合格者がもくろみ通りに諦めて大学を去ってくれる保証はありません。再挑戦のチャンスを制限したところで、相当数の落第者が絶えず大学にたまり続けて、定員問題を余計に悪化させるのが落ちでしょう。実はその予行演習に近いことが現に日本の大学ではすでに行われてしまった、と私は考えます。一部のエリート大学における「大学院重点化」です。


(以下は本題から少しそれます。)
 「大学院重点化」は大学の組織としての中心を、学部生の教育を行う組織である「学部」から、大学院生を教育し、併せて研究を行う(というより、大学院生は大体は研究者予備軍ですから、その教育はそれ自体研究活動の一環です)組織である「大学院」に移すという組織改革で、20世紀末から今世紀初めにかけて、「国立大学の法人化(それ以前は国立大学は中央官庁である文部省(現文部科学省)の下部組織、部局であって、固有の法人格を持った独立した団体ではありませんでした)」と前後して行われました。それまではどこの大学も、大学院生の入学定員を建前としては持っていましたが、実際にはその定員いっぱいに入学者を採る、ということはしていませんでした。少なくとも良識のある大学院であれば「受験生の中に優秀で見込みのある学生がいれば、定員の範囲内で合格させるが、仮にいなければ、たとえ定員の範囲内でも合格させない」という風に入学試験を運用してきました。しかしながら「大学院重点化」以降は、大学院生を定員いっぱいとらないと、組織が動かせなくなってきます。その結果、院生の質は当然に低下しますし、教員側が行う指導の質も低下してしまいます。当初この問題は、「大学院には修士課程から博士課程への移行という節目が存在するから、そこで能力の足りない院生は落として大学院から追い出す」という戦略でクリアされる予定でしたが、現実にはそう簡単にいきませんでした。その結果が、受験生の皆さんの中にもご存知の方が多いでしょうが、たくさんの博士が就職先もなく貧困にあえいでいる、という今日の惨状です。
(本題に戻ります。)


 というわけで、少なくとも短期的には、大学が志願者全員を受け入れるということはせずに、選抜試験を行って不合格者にはお引き取りいただく、という一見不人情な措置をしている理由の一端はおわかりになったと思います。しかし、話はそれだけでは終わりません。
 先ほど「産業」という言い方をしました。現在、日本を含めてほとんどの国では、初等中等教育(日本でいえば小学校・中学校・高等学校)を義務教育ないしそれに近いものとして位置づけ、国が責任をもって無償でサービスを提供しています。しかしながら日本の場合、高校は義務教育ではなく、現在のところは無償ではないですし、入学試験も通常は行われます。大学の場合は言うまでもありません。特に私立学校の場合、もちろん国の教育政策による統制は受けてはいますが、法律その他のルールを守っている限りにおいて、自由に採りたい学生を採り、自由な教育を行うことができます。そうした自由の裏付けは、金銭的な自立であり、私立学校に金銭的な自立は、学生からの授業料収入によって支えられています。つまりは私立学校においては、教育サービスは市場的な取引によって供給されているのです。平たく言えば、教育サービスもまた、お金で買える商品であるわけです。
 だとすればなぜ、私立学校は、入学試験だなんてまだるっこしいことをせずに、より高い値段を自分の教育サービスに付けてくれるお客から先に入学させて、お金の払えない/払う気のない相手は門前払い、という、普通の市場的取引では当たり前に行われるやり方を採らないのが普通なんでしょうか?
 ある経済学の教科書には、こんな風に身もふたもない答えが書かれています――そんなことをすれば甘やかされてうぬぼれだけは強い、世の中をなめた金持ちのドラ息子・バカ娘ばかりが入学してくるからだ、と。
 普通の市場的取引においては「ある品物に対して高い買値をつける」という振る舞いは、買い手の熱意と誠意を意味すると考えて大体は問題ありません。どうしてもその品が欲しいと思うからこそ、高い値段をつけてくれるのだ、と。しかしながら学校教育というものは、長い間にわたってうけるサービスですし、その分お値段もお高くなります。非常におおざっぱに言えば、高級車や家を買うのと同程度のお金が動きます。こういう高い買い物は即金で、その場で全額支払って終わり、とは当然行きません。長く続く在学期間の間に、ちょっとずつお金を支払っていくわけです。このような高額の取引を、しかも長期にわたって行う場合には、何と言っても「信用」が大事です。裏返すと、こういう取引を行う場合には、悪意による詐欺や、悪意はなくとも怠慢、不誠実による取引の失敗――授業料未納だとか、奨学金の踏み倒しだとか――の危険と闘わなければならない、ということです。
 そもそも学校教育の場合、お金を払う主体は多くの場合、教育を受ける本人ではなく、その親である場合が多い。となれば、高いお金を払う意思イコール学業に対する熱心さ、とみなすわけには到底いきません。仮に、親の資力をあてにすることを禁止して(でもどうやって?)、自力で払わせるようなルールを作ることができたとしましょう。その場合本人にコツコツ払わせるか、あるいは入学時にローンを組ませることになるでしょうが、さて、この場合にだって「高いローンを組むことを申し出た志願者ほど、やる気がある熱心な学生である」などと素朴に判断していいものでしょうか? そういう志願者はむしろお調子者だったり、うぬぼれ屋だったり、あるいは確信犯の詐欺師だったりするかもしれません。――そういうわけで私立学校は、たとえ高い高い授業料を要求するお金持ち御用達の学校であっても、お金さえ積めば入れるというわけではなく、それとは別に、志願者の能力や誠意をみるために試験を――大体の場合、学力試験を行うものなのです。
というわけで、大学が入試を行う理由、についてはおおむねお分かりいただけたかと思います。さて今度は、「試験」という仕組みを別の角度から見てみましょう。
世の中には色々な試験がありますが、ここではそれらを大雑把に「選抜試験」と「資格試験」とに分けてみましょう。
 「選抜試験」とは、たとえばまさに入学試験がその典型である(と見える――この留保の意味については後でお話しします)ような、限られた枠にそれを上回る志願者が殺到した場合に、志願者たちを振り分けるための試験です。これは行ってみれば「相対評価」の試験であり、乱暴に言えば「落とす」ことに眼目があります。仮に志願者の数が少なくて、入学定員のような「枠」に満たない場合には、選抜試験を行う必要はそもそもありません。
 「資格試験」とはたとえば運転免許とか、医師免許とか、あるいは英検とか漢検とか、一定の知識と技能を身につけているかどうかを調べる試験です。こうした試験の主眼は「落とす」ことにはなく、あえて言えば「育てる」ことにこそあります。ふつうこうした試験においては、「選抜試験」のようにあらかじめ「枠」つまりは合格者の数が決まっているわけではありません。「資格試験」は通常は「絶対評価」であり、一定以上の成績をおさめた受験者は全員合格となります。ですから理論的には、全員合格もありうるし、全員不合格もありうる、という仕組みです。通常「資格試験」は、「この程度の知識があり、この程度のことができる者は合格とする」という合格基準、要求水準を公表しているものです。受験生はその水準をクリアすべく努力して、その成果を試験で披露するわけです。このように「資格試験」は、一般的には、「目標を提示し、そこに向けて受験生たちを努力させる」という側面を強く持っています。
 さて私は、大学入試は「選抜試験」の典型である「ように見える」と上に述べました。その意味をこれからご説明いたします。
 例の「大学院重点化」以前の古き良き?(もちろんそこにもいろいろ問題があったことは確かなんですが)大学院においては、入学試験は「選抜試験」というよりはむしろ「資格試験」として行われていたということはお分かりだと思います。それでは、学部の入試はつねに「選抜試験」であって「資格試験」の色彩は全くないかといえば、必ずしもそうではない、と私は考えています。
 最近はよく「Fランク大学」の噂を聞きますが、定員割れで実質的には志願者全員を受け入れざるを得ない大学においても「入学試験を完全に廃止した」という話はあまり聞きません。入学試験というのは、皆さんはご存じかどうか知りませんが、結構骨の折れる、神経を使う作業で、できるのであればやらずに済ませたいところです。それでも、定員割れで実際には学生を選抜する必要がなくとも、多くの場合大学が入学試験を課すとすれば、それにはどんな意味があるのでしょうか? それは当然のことながら「うちに来る学生さんにはせめてこれくらいは勉強しておいてほしい」という、大学の側の希望が込められているのです。まあこの例においては「せめて資格試験であってほしい」という大学側のはかない希望、画に描いた餅でしかないように見えます。それでも、入学試験をやるとやらないとでは、志願者の側に与えるプレッシャーが少しは違うでしょう。
 もう少し積極的なお話をいたしましょう。日本における私立大学の雄といえばやはり早稲田大学慶応義塾大学ですが、慶応の文系学部の入試には国語がなく、その代わりに小論文試験があることはよく知られています。この形式の歴史は相当に長く、70年代にまでさかのぼるのですが、ライバル早稲田も一時期、80年代半ばから2000年代半ばにかけて、第一文学部(現在では文学部・文化構想学部に再編)を皮切りに、いくつかの文系学部の入試に小論文を取り入れていました(英語、国語、小論文の三科目)。ちょうどこの時代が、大学受験産業における「小論文バブル」とでもいうべき時期で、大学院生だった私もその恩恵にあずかった(とある大手予備校で小論文の添削指導のバイトをしていた)ことがあります。しかしながら早稲田では人間科学部スポーツ科学部以外は、小論文入試をやめて、昔風の英語、国語、社会科の三科目編成に戻してしまいました。
 大学受験のための国語・小論文指導を行う傍ら、大学問題のルポルタージュを書いている中井浩一さんの取材とまとめによれば、早稲田第一文学部が小論文入試を排した理由は、当初の狙いが外れるようになったからです。
 もともと早稲田の入試はいわゆる「私大文系」の典型で、記述式回答を要する問題が少なく、穴埋めや選択式の問題が多い上に、昔は(少なくとも80年代くらいまで)特に社会科で重箱の隅をつつく体のカルトクイズ的な難問奇問が多いことで悪名高かったのですが、そうした悪評を払拭する狙いもあったのでしょうか、第一文学部の小論文入試導入は、当初はそれなりに肯定的な評価を受けましたし、学部側としても出ごたえを感じていたそうです。知識の量をではなく、思考力と表現力を問う出題形式は、一夜漬けの受験学力ではない本物の知性を求める大学の姿勢を愚直に表したものですし、そうした大学の姿勢は受験生や高校・受験関係者にも好印象を与えました。
 しかしながら回を重ねるうちに、第一文学部はだんだんに小論文入試に対して不満を覚えるようになっていったようです。作問についてはおそらく社会科よりも楽でしょうが、多数の受験生が殺到する人気大学・人気学科だけに、採点の労力は大変なもだったでしょう。しかしそれ以上に学部関係者にとって気になったのは、次第次第に答案がパターン化してきたことです。回を重ねて制度が定着してくると、出題する学部スタッフの側も慣れてきますが、それ以上に全国の受験生、そして何より彼らを指導する高校や受験産業の教師たちもまた、早稲田の小論文に慣れてきて、ノウハウを蓄積してきたのです。どのような文章が課題文として出題されるのか、それをどのように読み解くのか、その上で、どのような答案を作っていけばいいのか――そうしたストラテジーが徐々に体系化されていったのです。その結果、最初は玉石混淆ながらも、その中に光る個性が発見できた小論文入試の答案群は、だんだんと粒がそろった、しかし面白くないものに変質していった、といいます。それゆえに早稲田大学の文学部・法学部・商学部は、苦労して導入した小論文入試を廃止ししたのです。
 これに対して慶応文系学部は、早稲田一文より以前から小論文入試を行っているのみならず、早稲田がこれを止めた後も相変わらず続けています。となれば早稲田以上にその出題傾向は見切られ、対策のノウハウも確立し、広く共有されているはずです。にもかかわらず慶応が小論文入試をやめない、その理由は何なのでしょうか?
 中井氏の見立てでは、早稲田の小論文導入の背後にある考え方は典型的な「選抜試験」の発想であり、それに対して慶応の小論文を支える思想は「資格試験」のそれにむしろ近い、ということです。もちろん慶応の入試も、限られた枠を争う椅子取りゲーム型の「選抜試験」であることに変わりはないのですから、こう言ってしまうと誤解を招きますね。つまり慶応の小論文入試の背後には、「選抜」よりも「育成」を重視する思想が隠れているのではないか、というわけです。中井氏の取材によれば、慶応の入試関係者は、自分たちの小論文入試が全国の受験関係者によって研究し尽くされ、対策を立てつくされていることは承知しています。しかし考えてみましょう。「対策を立てた」からと言ってどうだというのでしょうか? 確かに高校や予備校の先生方が対策を立ててくれた分、受験生の負担は減るでしょう。しかしだからと言って受験生が、何もしなくて済むようになるわけではありません。それなりに勉強を積んで読解力と文章力、そして教養をつけておかなければ、その「対策」は実行不可能だからです。またその対策がパターン化されていて、それに基づいた答案がどれもこれも似たり寄ったりになったとしても、それはあくまでも方向性でのことです。ちゃんとした問題を作っておけば、たとえその回答に際しての受験生たちの戦略が、みんな同じ方向を向いてたとしても、答案、文章の出来不出来には、読解力と文章力に応じて、歴然たる差がついてくるはずです。そうなれば、いくら事前に研究され、対策を立てられたところで、小論文入試はちゃんと「選抜試験」としての用を果たしてくれます。そして同様に重要なことは、そうした「対策」が練られることによって、受験生は当日の勘の冴えに頼った一発勝負に出ることなく、事前にきちんと受験勉強をしてくれる――その分、きちんと地力をつけてくれるだろう、ということです。
 非常に極端に言えば、早稲田の一文に仄見え、実際多くの小論文入試導入校にあったのは、「受験学力では測れない地頭の良さや感性を測りたい」「個性豊かな新入生を採りたい」という思惑だったわけです。しかしながら小論文試験で測れる程度の「個性」などは、対策を立てて訓練すれば身につく程度のものでしかありませんでした。そのことに失望した大学は、小論文入試から撤退することになります。しかしながらそうした「個性」を真に受けず、小論文入試を普通の学力試験の一環として位置づけた上で継続していく大学も確実に存在していました。「小論文バブル」がはじけた後、自己推薦入試や社会人入試ではない、一般入試において小論文試験を実施している大学は、そういう発想で取り組んでいるとみることができます。
さてここまで見てくると、「選抜試験」と「資格試験」を対比するよりも、むしろ「選抜」(あるいは「選別」)型試験思想と、あるいは「育成」(あるいは「目標提示」)型試験思想というものを対比した方がいいかもしれません。「選抜試験」は「選抜」的発想に導かれることが比較的多く、それに対して「資格試験」においては「育成」的視点が強く出ることが多い、くらいのことは言えそうですが、既にみたように、典型的な「選抜試験」と見える大学入試においても、「育成」的な発想は見られます。また逆に「資格試験」においても、中には努力によっては身に着けようもない生まれながらの資質を見極めようとするタイプの試験も例外的に存在するでしょうから、「選抜」的な契機が皆無というわけではありません。実際の試験においては、どちらのタイプの試験においても、両方の発想が混在している、ということが多いでしょう。
「いったい長々と何を話しているんだ」と思われたかもしれませんので、ここら辺でいったんまとめに入りましょう。そもそもの大前提として、大学が入試を行うのは、志願者が受け入れ定員を上回る場合にです。そのような標準的な状況の下では、入学試験は身もふたもなく人を振り分ける選別の仕組み、「選抜試験」になります。しかしながらその選抜試験を、学力試験、つまりは高校までの義務教育+αの学校教育で教わったはずの教科+αの知識、つまり秘伝とか秘密とかではなく公開の知識と、それを使いこなすスキルを調べる試験という形で行うことには、それなりの理由があるのです。
 早稲田の第一文学部が小論文を採用して、それから取りやめた理由を思い出してください。あるいは、なぜ知能テストを入学試験に用いないのか、を考えてください。生まれながらの、「天性」の素質、ではなく、公開された、誰でも身に着けようと思えば身につけられるはずの知識とスキルを見て、入学者を決めようというスタンスが、普通のありふれた入学試験にはあります。つまり一般入試の学力試験の背後には、受験生に「勉強」させよう、努力させようという「育成」的な発想がきちんと隠れているのです。
 ここで「小論文バブル」崩壊後にそれに入れ替わる形で、学力以外の尺度で受験生を評価しようという自己推薦入試について考えてみましょう。この手の試験にはしばしば小論文も課されますが、より重要なのは、大学入学前の高校生活その他で、受験生が何に取り組み、どの程度努力して、どれほどの成果を上げたのか、という実績調査です。これは直接には学力試験ではないため、見かけの上ではかつての「個性」重視型の小論文入試と似通った発想の上に立っているように見えます。しかしそれはあくまでも見かけだけのことです。自己推薦入試においては、狭い意味での学業以外の領域、例えばスポーツや芸術、社会活動において、受験生がどれほど努力し、何を学んだか、が評価されます。その意味でやはりこれは「天性」を評価しようというものではありません。自己推薦入試でも、一般入試の学力試験と同様に、普通の人間の平凡な努力が評価されます。そして、そのことによって、志願者、受験生に対して、何事かにきちんと取り組んで、広い意味で「勉強」することを促しているのです。
 普通は「育成」というのは学校に入ってからの話であって、学校に入る手前の入学試験というものは単なる「選抜」の仕組みだ、という風にともすれば見えてしまいがちですが、実はそんなことはないのです。まっとうな大学と大学人であれば、入学試験を通じて、受験生の皆さんに勉強していただきたいと考えています。選別に耐えて残った合格者だけにしか関心がないわけではないのです。
ところで、ここまで偉そうに早稲田一文型の小論文入試を批判し、慶応型小論文入試、更に言えば普通の学力試験を肯定する方向でお話をしてきましたが、実のところ内心忸怩たるものがあります。一般的に言えば学力試験は、それこそ「私大文系」型の選択や穴埋め主体の、回答を記号や単語で書けばおしまい、の試験よりは、きちんと文章で回答を書かせる論述型の試験の方がよいに決まっています。その意味で一時期ではあれ小論文入試に相応の労力を傾注した早稲田大学の姿勢は評価されるべきだし、いわんや慶応義塾大学の努力は並々ならぬものがあると思います。それに対して本学の一般入試の問題といえば、まさに「私大文系」の典型で、選択や穴埋めばかりの体たらくです。お恥ずかしい次第です。
 それでも大学の「中の人」としてひとつ言い訳を言わせていただくならば――選択・穴埋め型の試験も、存外馬鹿にしたものではない、ということです。英語や国語の試験において出題者は、ことに長文読解の問題において、何とか選択・穴埋め式の設問でも、きちんとした内容の理解ができているかどうかをきちんと見極められるように工夫を凝らしています。それでも社会科の場合には、選択・穴埋め形式の設問ではどうしても暗記力だけが問われる試験になってしまうのではないか――そう受験生の皆さんは思われるかもしれません。
 しかしながら、暗記するだけの勉強もそう馬鹿にしたものではないのです。まず第一に、暗記するには努力が必要ですから、少なくとも努力の程度、あるいは根気、忍耐力などをそこから推し量ることはできる。肉体労働にも知的作業にも、根気は重要です。そして第二に、人間というやつは無意味なことを覚えるのが基本的には苦手である、ということです。歴史のテストで問われる雑然とした状況、地名人名事件名に年号を暗記するとき、古典的な語呂合わせの工夫なんかもありますが、それでも細切れの情報をそのままおぼえこむのは普通の人間にとってはとてつもない苦痛です。ですから、断片的な知識を暗記する場合には、その断片をきちんと有意味な体系の中に位置づけるという作業を経由した方がかえって都合がよいのです。つまり、断片的な事件や人名をただ覚えるのではなく、歴史の流れの中でどのような事件が起こり、その影響はどのようであったか、という風に全体のコンテクストをまず頭に入れて、そのうえで細部についての断片的知識を固めていく、という方が勉強として効率がいい、ということは、まあ受験生の皆さんもご存じのはずです。
 ですから、もちろん細かく言えば例外ももちろんいるんですが、ごくごく大雑把な傾向としては、論述式の試験で高得点を稼げる人は、暗記主体の選択・穴埋め型の試験でもそれなりに好成績をおさめられることが多いですし、逆もまたしかりなのです。
まあ最後の話はどちらかというと付け足しです。今回のお話で私が言いたかったのは、要するに、大学の入試は単なる「選抜」、受験生の皆さんをふるいにかけるためだけにやっているのではない、ということです。どの大学も、入学試験を通じて、受験生の皆さんに少しでも成長してもらいたい、と、結構本気で願っているはずです。


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