入試問題をめぐって徒然に

 インサイダーなので(入試関連業務の管理レベルのところで本格的な仕事をした経験はないが大学教員である以上末端レベルの仕事なら毎年やっているので)具体的な話をするのには差しさわりがあるのだが、大学入試というのはなかなかに頭の痛い事業であることは言うまでもない。


 言うまでもないことだが、入試問題というものは、十年ほど前に話題になった「外注」のケースを別とすれば、基本的には大学教員が作っている(はずだ)。(そういえばその昔この「外注」のことを「盗人に鍵を作らせるようなもの」と評した方がおられたが、好むと好まざるとにかかわらず、大手予備校が大学に対して入試にかかわるコンサルティングを主要業務のひとつとするようになって久しいということは厳然たる事実。)
 そして大学入試における学科試験の問題は、通常は高等学校までのカリキュラムに則ったかたちで、つまりは高校における授業科目に対応した形で行っている。しかしながらここで注意すべきは、大学教員は中等(中学高校)教育の専門家でもなんでもなく、高等学校の教員免状を持っている者さえそう多くはない、ということだ。ぶっちゃけていうと「大学入試問題はある意味で「素人」が作っている」ということである。(一時期流行したが、その後はどちらかというと下火の小論文入試はいわば「例外」である。)


 具体的に言うと差しさわりがあるし、日本中にはいろいろな大学があって事情も多種多様であるし、また専門分野と科目によっても違いは大きい。それでも理系科目、数学と理科――物理・化学・生物などの場合には、いくら高校教育には素人で、教育的配慮については不案内であっても、最低限の基本ラインを押えた作問は専門家であれば比較的容易だろう。しかし文系科目、ことに社会科の場合には相応の困難がある。
 たとえば歴史学の専門研究者にとって、古代から現代にまで至る歴史の全過程、高校の日本史・世界史が建前としてカバーする全領域について精通している必要はない。すべての歴史研究者が踏まえておくべき基礎的常識というのは、社会科学的・方法論的基礎教養であって、個別具体的な歴史知識ではない。むしろ普通のプロの歴史家の知識は高校レベルの世界史・日本史にとっては細かすぎる。つまり日本の大学には中等教育の「世界史」「日本史」の専門家はほとんど存在しない。例外は教員養成課程の社会科教育の専門家である。
 あるいはもっと困るのは公民系科目である。高校の現代社会・倫理・政治・経済は、理論的な体系によって整理されていない雑多な知識の寄せ集めでしかなく、プロの社会科学者の基礎教養、たとえば理論経済学とか民法解釈学とかの素養がほとんど役に立たない。
 それゆえにかつての大学入試においては、(たとえばぼくの受験生の頃までの早稲田の世界史など)高校教育のレベルを著しく逸脱した瑣末な知識を問う難問奇問がしばしば話題となっていた。大学全入が噂され、受験生の顔色をみんながうかがう昨今ではこうした悪問は少なくなり、また社会的な非難(具体的には受験生からのクレームや予備校からのお叱り)を浴びるようになったが、かつては大学側は「これも個性」といわんばかりに居直っていた。しかし言うまでもなくそれは「個性」などではなく、ある意味致し方ないとは言え、基本的には出題者たる大学側の「怠慢」「無能」の徴だったのである。


 これに対していわば「逆方向」のミスマッチもある。近年は石原千秋などが精力的に論陣を張っているが、大学入試における「現代国語」とは何か、について考えてみよう。大体において大学入試の「現代国語」の問題の基本フォーマットは文章の読解であり、その文章は具体的には文学的文章、典型的には小説と、いわゆる「評論文」とに分かれる。
 言うまでもなく中学高校の「現代国語」は国語の教員免状を持つ、つまりは大学では教員養成課程の国語科か、あるいは文学部の国文学・比較文化ならびにその周辺の出身者が教えており、教科書の執筆者もまたそれに準じたキャリア、つまりは中学高校の教員と国文学者からなる。しかしながら大学入試の「現代国語」において出題される「評論文」の具体的中身はというと、誰でも知っているとおり、その大部分は国文学・文芸評論からは縁遠い。ぼくが受験生だった頃には山崎正和が圧倒的な人気を誇って(?)いたわけで、山崎ならばまあ文学者・文芸評論家と言えようが、90年代以降の状況は相当に違う。たとえば石原による分析を見ていただければ一目瞭然だが、昨今の入試問題で圧倒的な存在感を発揮しているのはたとえば鷲田清一上野千鶴子といった人々であり、つまりは哲学者や社会学者など、広い意味での人文社会科学系の書き手による文明批評の類である。(拙著『モダンのクールダウン』から出題した大学もある。何ということか。)さて、どういう方々が作問しておられるのでしょうか? 
(同様のことは程度の差はあれ英語においてもあてはまり、英語の長文読解問題はほとんどの場合、文明批評や時事評論であって文学的文章はあまり見られない。どういう方々が以下略。)
 しかしこのような事情に対する社会的非難はあまり見られない。


 例によってこのような事情によく対応しているのは、学校教育法だの指導要領だのに縛られない受験産業の方である。予備校で受験現代文、そして英語を教えている講師のバックグラウンドは大概の場合「国語国文学」や「英語英文学」にはない。哲学、古典文献学、歴史学政治学とどうにもならないほど雑多である。(哲学関連で有名どころを紹介するなら、小林敏明は河合塾の現代文元カリスマ講師、入不二基義駿台の英語科の元講師。土屋俊も河合塾で英語を教えていた。)
 石原千秋は「国語教育の主題を作品鑑賞ではなく批評に置くべきだ」との論陣を張っているわけだが、彼の問題意識に対しては現状では、高校国語教育よりも大学入試国語の方がよく対応しているわけだ。

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

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国語教科書の思想 (ちくま新書)

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