「無能な者たち」をめぐって

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「無能」にまつわる小玉重夫の議論は言うまでもなく田崎英明『無能な者たちの共同体』を踏まえたものであるが、田崎の語り口は小玉のそれに比べるともう一段ガードが堅い。
 小玉の語り口は余りにも見え見えというか、謙虚なそぶりをした傲慢、無防備なルサンチマンの露出という弱点がある。もちろん小玉による「無能」論は田崎のそれと無縁というわけではなく、韜晦気味の田崎の議論をわかりやすくパラフレーズしたものであるといってよいが、田崎の表現はもっと不気味なものだ。小玉の議論がわかりやすく謙虚なそぶりにおいて、すなわち「無能」に対する「有能」の優位をとりあえず認めつつそれを脱構築し逆転するという形で論が示されているのに対して、田崎はより直截に臆面もなく、「無能」の「有能」に対する優位を主張する。こういう具合だ。

 古代において、善とは、それ自体が望ましいものであった。何かの役に立つかぎりで善であるのではない。それ自体が善であるのである。それゆえに、善なるものは何の役にも立たない。善はそれ自体が目的であり、何者に対しても手段として振舞うことはないのだから。完全なものは善である。完全なものも、何にも奉仕はしない。もしも、それが何かに使えるのだとしたら、その使える対象のほうがより完全なものであるにちがいないのだから。つまり、それは、そのとき、不完全なのであって、完全ではない。したがって、完全なものは何の役にも立たない。善なるものは、そして、完全なものは、無能adynamia, Impotenzである(それだから、有能な者たちは、おのれの不完全さを恥じるのである。
田崎英明『無能な者たちの共同体』未来社、7頁。)

 小玉の議論には謙虚なるがゆえの隙がある。それは「無能な者たち」による、「有能な者たち」に対する、ニーチェ的な意味での「奴隷一揆」の野望であることがあまりにも見え透いている。ここで「無能な者たち」は「有能な者たち」に復讐しようとしている。「社会」のフィールドにおける「有能な者たち」の優位を承認しつつ、「政治」のフィールドで「無能な者たち」の優位を確保しようとしている。
 田崎の議論はほとんどそれと同じように見えるが、微妙なニュアンスの違いも見られる。田崎はおそらく、小玉のような議論はそのニーチェ的な下品さが、本田由紀濱口桂一郎からのような反撃を誘発せずにはいないことを理解していて、少しばかり違うスタンスをとろうとしている。彼のあからさまな傲慢さは、失笑や憐憫を誘いこそすれ、小玉の場合のように憤激や軽蔑を買うことは逆に少ないのではないか。
 好意的に(?)解釈すれば、田崎は「無能な者たち」を「有能な者たち」に対して優位に立たせようとするのではなく、「完全」にして「善」なる「無能な者たち」を「有能な者たち」から絶縁することをむしろ志向しているのである。復讐をではなく、訣別を、というわけだ。


 しかし残念なことに、小玉のそれよりもラディカルな田崎の議論は、全く役に立たない。「無能」が「完全」で「役に立たない」以上、そのことは田崎の議論の正しさを意味する、と言ってみたくもなるが、そんなことは慰めにはならない。
 いくら「無能な者たち」が「有能な者たち」と縁を切りたくとも、不完全なおのれを恥じる「有能な者たち」は「無能な者たち」を放っておいてはくれず、ひたすら追い回し、追い詰めていく。それが田崎をして呆然とせしめる「生―政治」である。そうした現状を知っているからこそ、実際には田崎は「訣別としての政治」につくことができず、「有能な者たち」との戦いを鼓舞しないではいられない――もちろんそれは始めから敗北を運命付けられているし、間違って勝利してしまおうものなら、それこそ最悪の結果に繋がらざるを得ない。
(肯定的な「剥き出しの生」としてマルチチュードを位置づけようとするハート&ネグリのことを想起せよ。しかし拙著『「公共性」論』で論じたとおりそれはおろかな議論である。そのありうべき結果はつまるところ収容所デモクラシーでしかない。仮に肯定的な「剥き出しの生」がありうるとしたら、それは革命的マルチチュードではありえず、せいぜい好景気の下で高賃金を享受する「幸福なホモ・サケル」でしかあるまい。
 なお、田崎もまたこうした素朴さに足をとられている。たとえば『無能』212頁以下の「コナトゥスの平等」。)


 どのような抜け道があるのか?
 まず現に我々が既に遂行している抜け道を見てみよう。「無能」もまたこの世においては、別種の「能」として解釈されなおすことなくしては、存在することさえできないのではないだろうか。「無能なくせに偉そうに能書きたれる」という「能」として。これはもちろん「完全」で「善」なる「無能」からの堕落に他なるまいが、それは不可避であろう。「奴隷一揆」「価値転倒」によって「有能なる者たち」の優位に立とうとするのではなく、こっそりと裏口から「有能なる者たち」の仲間入りするという戦略。現実に「無能なる者たち」がとっているのは、このような道ではあるまいか。
 あるいはまた、「有能」概念の転換の可能性について考えてみるべきだろう。田崎自身、「(少なくともある時期まで)ドゥルーズ生の哲学は受け入れがたかった」と述べているが、ドゥルーズ唯物論は、おのれの不完全を恥じない、それゆえに「無能な者たち」を追い回すことなく放置する(それゆえに「無能な者たち」も超然としていられる)「有能な者たち」の可能性の余地を残していると思われる。
 それはぼくの言葉で言えば「左翼リバタリアニズム」ということになろうが、そうした立場が可能でありうるのは、一定の環境――資源の制約が深刻ではない、プラスサムの成長が安定的に持続している――の下でのみであることは言うまでもない。


無能な者たちの共同体

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キーワード 現代の教育学

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