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不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

 『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で、分析・解釈されているいくつものゲームや小説を通覧することから直観できることは、まずは次のことである。すなわち、オタクたちは、あるいはより広く(オタクたちを生み出した)現代社会は、終わることの困難に直面し、もがいているのではないかということ、これだ。ゲームや、ライトノベル、アニメの中で、「反復」という主題がやたらと反復されているのである。反復する時間の中に閉じ込められ、そこから抜け出すことができない、という主題が、作品横断的に、あまりにも頻繁に登場するのだ。ゲームにおいては、この反復を何とか切り抜け、真の終わりをもたらすことが、目標となる。(196頁)

 たぶんここには、有意義な指摘と並んで、重大な錯誤が潜んでいると思われるのだが、まだ十分に展開する余裕はない。
 第一点。ずいぶん前に、まだ論文を書いていたころの宮台真司内田隆三の消費社会論/ポストモダン論を批判していっていたこと。うろおぼえだが、ポイントはボードリヤールフーコー批判(「フーコーを忘れよう」)にかかわっていた。ボードリヤール=内田によれば、現代社会においてはフーコーがその著作で分析したような、明確な主体性に照準し、それを生産するような権力はもはや時代遅れになりつつあるわけだが、ここで宮台は「「主体の表象の解体」と「主体の解体」は違う」と指摘し、彼らは前者を後者と取り違えている、と断じていた。
 ギャルゲーを素材とする東、それを援用する限りでの大澤のポストモダン論は、あくまでも前者のレベルに照準している。
 第二点。ギャルゲーという素材ははたしてポストモダン状況の分析に際して、「ツボ」「急所」「管制高地」なのか? そこにおけるそれなりに興味深い展開は、ポストモダン状況の的確な反映なのか、それとももうちょっと即物的に、メディアの特質とか産業・市場の性質とかのしからしむるローカルな現象として考えるべきではないのか? たとえばそこにおいて作家性が突出するのは、ギャルゲー、萌え、ポルノというジャンルの特性という以上に、産業構造のしからしむるところではないのか?(メーカーはすべて零細企業で、文芸における「出版社」や映像における「テレビ局」にたあたる存在がない、等。和智正喜の教示による。)あるいは東は、ある時期以降のギャルゲーが急速に非ゲーム化していくことを重視するが、この問題についても、性急に側からポストモダン社会理論をあてがうべきではなく、その内側から論じられるべきではないか? 
 少なくともまずいったんはギャルゲーから離れて、ビデオゲームの歴史に内在すべきであろう。そして、日本に視野を限ったうえでも、なぜファミコン以降のコンシューマの世界で、ADVは衰退して、RPGが隆盛したのか、を考えてみるべきだろう。それを経ずして日本におけるギャルゲーの歴史の意味(つまり、コンシューマでは衰退したADVがなぜPCゲームでは生き延びたのか、なおかつそのほとんどがギャルゲー化=ポルノ化したのか)はわからないと思うのだが。
 以下に述べることにおける正しい部分は、全く自明のことにすぎない。間違った部分は、もちろん単なる間違いだ。
 簡単に考えると、まず、ADVはRPGに比べてコストパフォーマンスが悪い。同じ値段でより長い時間楽しめるのは、RPGの方だ。PCポルノゲームにおいてADV形式が生き延びられたのは、まずはポルノ的イラストという付加価値でもって、短いプレイ時間というデメリットを相殺できたからであろう。それでもプレイ時間の短さはADVの最大弱点であり続けた。この辺の突破口は、おそらくはメーカーとユーザー双方の試行錯誤の中から生まれた、ゲームプレイ目標の転倒である。すなわち普通のRPGでは敗北はゲームオーバーであり、かつてはADVもそのようなものであった。しかしながらポルノADVにおいて、ずれが発生した。すなわち、「ゲームオーバー」が「バッドエンド」へとその意味を変え、ゲームのプレイ目標が「すべてのエンドの制覇」にすり替わったのである。このことによってプレイ時間の短さという不利もある程度償われることになった。
 しかしこの転倒が、ギャルゲーをして次第にゲームならざるもの――それこそ「ビジュアルノベル(英語でgraphic novetというとストーリーマンガのことになるのでとりあえずこういう)」に変えていくことにもなる。別にここでこうしたギャルゲーを「ゲームならざるもの」と呼ぶのは、貶める意味ではない。しかしビデオゲームの特徴を桝山寛にならって「相手をしてくれるメディア」とするなら、「ビジュアルノベル」はもはやビデオゲームではない。そこにはユーザーの創意工夫による「やりこみ」や「ルールブレイキング」による付加価値創造の余地は、基本的にはない。

 この国の近代的な男性作者は女性の自己実現の物語を好んで描く一方で、男性たちには成熟を留保させる印象があります。彼らは「構造」的な物語に作り手として向かいながら、その「構造」が強いてくる主題に抵抗し、そこに作品としての固有性が成立している印象さえあります。
(262頁)

 たぶんに独断的(大塚自身が挙げる川端康成村上春樹石原慎太郎宮崎駿等、目立つ例は見つかるがどの程度一般的かは議論の余地あり)だが大変に興味深い。