今日も平和な経済学村

――としかぼくは思っていないんですが。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20081226/1230274589
 よーわからんのですが、「辛辣な悪意」とか誰のこと? ぼく? 田中さん? arnさん? ドラエモン氏? 
 他の人のことは知らんですよ? ぼく個人は小島さんに「悪意」はないつもりですが。arnさんは相当辛辣だが、別に小島さんを個人攻撃したいんじゃないでしょう。田中秀臣さんだって、政策レベルで相当真面目に批判しているんであって、人身攻撃したいんじゃない。ドラエモン氏は小島さん個人についてあれこれ言ってるんじゃなくて、一般的雰囲気について慨嘆してるだけ。
 無視するなら無視でいいんですよ。でも問題を「悪意」とかの方にすり替えるのはいかんでしょう。大体世の中「悪意」よりもっと恐ろしいのは「善意によるいじめ」だということはさておいて。(本田由紀さんとのことでの個人的な教訓。善意は言い訳にならん。)
(ところでブログを「香具師の口上」とすることには何の異議もないですが、だからどうしたの? という感じはしなくもない。ぼくもそうですし、プロのものかきでブログしてる人はみんなそうでしょ? それに「香具師」としてはこういう喧嘩沙汰こそ、売り込みのまたとないチャンスなんだから、そこに悪意があろうが無かろうが徹底的に利用すべきじゃないかな。松尾匡さんはそうやって『はだかの王様の経済学』の売れ行きを伸ばしたし。)


 あとね、個人的にはこれはちょっとひどいと思う。

ぼくは、「現実を見ていない」という批判に、「いや、ぼくも現実を見ている」などという反論をするつもりは全くないよ。「現実を見ていない」で結構。ぼくは、「現実を見ろ」という説教をする人を絶対信用しないことにしている。このことは、このブログを読んでいるとりわけ若い人たちに対して、老婆心ながら、人生の先輩としてアドバイスしておきたい。二言めには「現実を見ろ」という人には、多くの場合、裏腹がある。そんな手にはまっちゃいけない。実際ぼくは、子供の頃から、いつも「現実を見ろ」と説教されてきた。まず、父親に、次に教師に、そして、学校の先輩に、はたまた政治活動家に、さらには会社の上司に。でも、あとでわかったことは、そういう人たちのいう「現実」は、その人たちが色眼鏡をかけて見ている彼らに都合のいい「現実」であって、ちっとも本当じゃないってことだ。そういう人々は、人を理詰めで説得して自分の意のままに操縦することに失敗したとき、えてしてこのことば「現実を見ろ」を使う。ぼくは、そういう人々のいう「現実」よりも、むしろ、「数学」のほうを信じている。

 かっこいい啖呵だよね。これだけとってみれば。でも、いったい誰がこの間ブログで、小島さんに対して「現実を見ろ」って説教をしたんだろう? これって単なる論点のすり替えだ。ここで小島さんが言う「現実」って、「世間」とか「大人の都合」のことでしょう? 「そういう人たちのいう「現実」は、その人たちが色眼鏡をかけて見ている彼らに都合のいい「現実」であって、ちっとも本当じゃない」のはその通りだけど、今回arnさんたちが、プロの社会科学者である小島さんに見てもらいたい「現実」って、それと何の関係があるの? ぼくはないと思う。「歴史を勉強しなよ」って、それだけのことだよね。あるいは「「現実」がたくさんあるように、それについての解釈はいろいろあるだろうが、とりあえず事実についてきちんとわきまえようや」と。


 あるいは小島さんに譲って、こうも言ってもいいだろう。arnさんたちの言う「現実」(事実についての解釈)は小島さんにとっては全く大事でも何でもない可能性はある。経済学者が全員、景気やマクロ政策のことを考えて悩む必要はおそらくない。それどころか「経世済民」を、世の中を良くするにはどうしたらいいか、について悩む必要もない。ただただ自分にとって大事な、自分にとって興味のある問題だけを追究したって構わない。あるいは経済学者にはそれは許されないかもしれないが、数学者ならかまわないだろう。あるいは小説家でも、ダンサーでも、ミュージシャンでも、陶芸家でも、なんでもいい。何百万人が失業しようが、あるいは戦争が起きてたくさんの人が死のうが、市井の一個人にとっては「それは自分の問題ではない」ということはありうる。人間はそういう風に生きても構わない、と思う。祖国の、あるいは人類の運命よりも、自分の魂の救済のために生きても構わない、とぼくは本気で思う。
 更に言えば、魂より祖国を優先すると称する人が、実際にはたくさんの悪をなしてきて、公共に害をなしてきたのだから、ひたすら己の魂のためにのみ生きる人たちの方が無害である可能性さえある、と思う。
 それでも原則的には、誰かが自分の魂よりも祖国を優先してくれているからこそ、我々凡夫は己の魂に汲々としていられるのであり、そういう人への感謝を忘れてはならないし、いざというときには自分もそうやって祖国に奉仕する運命に襲われてしまうかもしれない、くらいのことは考えておくべきだ。(この辺の物言いは田島正樹先生や永井均先生を念頭に置いている。)
 つまり経済学者個人は別にドラエモンさんの言う意味での「儒者」であっても一向に構わないけど、経済学者みんながそうであったら困る、っていうこと。


 ――とまあ前置きはさておいて、小島さんも言うとおりどうもぼくと小島さんは文章の相性が悪い、というか、ただ単にぼくが誤読している可能性もなくはないのだが、いま一つぼくには、小島さんの問題意識と発想法がわかりにくい。なぜそうなのかというと、おそらくはぼくは小島さんをあくまでも小野善康先生との関係を通じて読むという、よく考えれば失礼なことをしてしまっているからだろう。何しろぼくは、経済学者になる前の数学エッセイスト小島寛之の本を全く読んでいないのだから。
 ぼく自身は、数理科学者としてはともかく、経済学者、政策論者としての小野先生の問題意識の大枠は理解しているつもりでいる。「流動性選好の不飽和の可能性」に注目して、そこにケインズ的な有効需要不足、それに基づく不況の根拠を見出す。更にはある種の資産が疑似貨幣として流動性の担い手となる可能性を指摘し、それゆえに金融政策による不況対策への悲観論にいきつく。つまり:
1.不況は主として貨幣的現象であり、また十分に理解可能な「普通の出来事」る。
2.貨幣の役割を果たすのは貨幣だけではなく、それゆえに管理通貨制のもとでも金融政策には大きな困難がある。
といったところか。小野先生のこうしたスタンスはおそらく、ここ十数年一貫しているはずだ。そしていわゆるリフレ派は小野先生の議論のうち1に対しては満腔の合意を表し、2についてはもっと楽観的である、というポジションであろう。
 さて、ぼくが読んだ最初の小島さんの著作は何しろ『サイバー経済学』であるから、ここでおそらくは小島さんを見るときに強烈な色眼鏡がかかってしまったのだろう。何しろこの本は、ベイジアン意思決定論について、そして金融派生商品の数理的根拠についてのど素人向け解説であると同時に、小野理論啓蒙の書でもあったのだから。ところが小島さんのその後の本を読んでも、たとえば『エコロジストのための経済学』ではケインズ経済学の無根拠性が基本的に強調されていて、小野理論系の話が出てこない。『算数の発想』でもそう。まあしかしここまでは、「なるほど小島さんは小野理論を捨てたのだな」と納得していた。何しろ小野理論には「経験的実証との整合性は割とよいが、ミクロ的基礎付けが弱い」という(アカデミックな経済学の流儀でいえば)弱点があったのだし。
 ところがそこへWiredvisionの連載で『不況のメカニズム』讃である。これについては既に書いた。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070621/p3
これでもうすっかりぼくは混乱して、小島さんの考えていることがさっぱりわからなくなってしまった。小野理論に回帰するのはよい。でも小野先生の理論も政論も、基本的にはぶれていないのだ。なぜここで小島さんは転向したのか? あるいは転向していないんだとしたら、そもそも何を考えているんだ?


 たぶんまあぼくはなんだかんだいって「人文系」として、理論家個人の思想的・体系的整合性のことを気にし過ぎているのかもしれない。ぼくの偏見かもしれないが、少なからぬ「理系」の人は、自然、客観的世界の方の体系的整合性を信頼している分、思想の側の整合性にノンシャランである――というより過度にこだわらないのではないのか。まあ小島さんがそういうタイプの人だ、などと診断を下せるほどぼくは小島さんの良い読者ではない。
 それにしてもぼくは小島さんに限らず、どうしてもひとりの人間の書き物を読む場合、全体としての整合性を、論理だけではなく気分のレベルでもそこに読み込んでしまいがちではある。だからたとえば小島さんの先のエントリ
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20081220/1229764380
などは猛烈に癇に障る。
 小島さんがおっしゃるとおり、ここでは「「効率的賃金モデルが、不況の原因だ」などと一言も書いてない」。そんなへまはもちろん、小島さんはしていないし、ぼくもそうは書いていない。
 ぼくはまず「効率賃金仮説についての解説は大変素晴らしい。しかしはっきり言ってそれについて記述された後半と、前半のつながりが全く見えない。労働市場の不完全性が恐慌と不況の原因であることの論証は端的に不在である。」と書いた。もちろん小島さんはこれに対して「「労働市場の不完全性が恐慌と不況の原因であることの論証」など目指していない」とおっしゃった。もちろんそれはその通りであろう。ぼくが気にしたのは「論証をしている、試みているという印象をこの記述が与えること」である。だからぼくは「レトリック」と書いた。
 それは小島さんに言わせれば「妄想読み」であり、ちゃんとした読者はそんな愚かな誤解はしないのであり、ぼくの読者のレベルを下に見、馬鹿にしている、ということになるのかもしれない。ただどうしても「「どこかに実物的な原因があるはずだ」と前半が締めくくられて、後半の記述に続く、という体裁になっているのだが、後半の記述がそれとしてよくできているだけに、何も説明していないのに何かを説明したかのような振りをする」結果に、意図せずして、期せずしてなってしまっているのではないか、という危惧がぬぐえないのである。
 なぜそう思うのか? この日のこのエントリをひとまとまりのユニットとしてみた場合、論理的なつながりはなくとも気分的なつながりはあるものとして書かれ、読まれることを期待しているはずだ。となれば、後半の効率賃金仮説の話と、前半の不況についての話には、何らかの関係が当然あってしかるべきだからだ。そうでなくただ単に前半と後半が別々の話としてごろんと提示されているのだとしたら、どちらかは端的に不要だ。しかしそれって、仮にもプロが書いた文章としておかしくないだろうか? 
 善意で読むとしたら、不況に続いて派遣切りのお話が導入され、その理論的背景を考えるために効率賃金の話が持ち出された、とすればよい。しかしそうだとするとここでは論点のスライドというか浮遊が起きている。派遣切りの至近要因は不況で、構造要因は二重労働市場だ、という話は成り立つだろう。しかしこのエントリの前半で問題となっていたのは不況のはずだ。不況と構造要因がまったく別の問題だと小島さんが認識していたのだとすれば、ここではいつの間にか論点がずれているのだ。


 まあ、こんな風に読む必要はないのかもしれない。それぞれの論点はばらばらに展開されているのであって、読み手としてはばらばらに読めばいいだけの話なのかもしれない。しかしながら小島さんの書きぶりには、時にある種の体系性のようなものが透けて見えることもある。24日のエントリなどその例で、その前のエントリを引き継いで、「実物要因が不況の背後にはあるはずだと思っていたら、貨幣要因だけで十分という注目すべき仮説、小野理論に出会った」という話になっているのだから。――ああ、そういうストーリーなの。でもそれは小島さん、小野先生だけじゃなくその読者たるあなたも十年前に通過したはずの道じゃないの? 


 ――ということで今回もプロレス的に販促をしてみようかな、というわけであります。

エコロジストのための経済学

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これがニーチェだ (講談社現代新書)

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