どうなのかbyおおや先生

「問題は結局こういうことである。裁判自体の争点は手段の是非であるが、被告人および一部の報道関係者はこれを目的の是非が問われているかのようにすりかえようとしている。念のために言うと、目的の是非が問題に含まれていることを否定しようとは思わない。ピザ屋やデリヘルのビラ配りが捕まったとは、確かに聞かないからである(もちろん彼らは住民に歓迎される情報を配布している可能性が高いとか、度重なる警告にも関わらず侵入するようなバカな真似をしないからであるという推測も成り立つ)。しかし仮に目的の是非が問われているような文脈があったとして、それを声高に指摘することが得策なのかどうか。そもそも彼らがビラ配りに精を出さなければならなかったのは何故かといえば、彼らが政治的な少数者だからである。社会の大多数が共有できるような目的を掲げていないから、彼らは少数なのである。それが多数の前にのこのこ出ていって、「私たちの目的が弾圧されました、私たちの目的は正しいのだから、私たちは許されるべきです」と主張する愚かさというものに、誰も気付かないのだろうか。いや気付かないからいまこうなんだろうけども。
http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000262.html


 問題としたいのは「仮に目的の是非が問われているような文脈があったとして」以下のことなんですが。つまり今回のポイントは手段レベルであったということを認めた上で、ではこのレベルでの合法性をクリアした上で、どのような運動をすればいいんでしょうか左翼少数派の人たちは。


 「声高に指摘すること」は間違っているのだろうか。いやもちろんそれはそれだけのことであれば不法ではありえないし、道徳的にも間違ってはいまい。しかしこれは「得策」であるとは、つまり賢い行いであるとは限らない。いやはっきりと愚かである。
「社会の大多数が共有できるような目的を掲げていないから、彼らは少数なのである。それが多数の前にのこのこ出ていって、「私たちの目的が弾圧されました、私たちの目的は正しいのだから、私たちは許されるべきです」と主張する愚かさというものに、誰も気付かないのだろうか。」とおおや先生はのたまう。どういうことか。仮にこうした少数派の人びとが、手段レベルでも目的レベルでも正しいとしよう。となればこのような振る舞いは定義上正しいが、しかしやはり愚かである。それは成果を生まない。そのような振る舞いに及べば、正しくない大多数、邪悪な社会によって叩き潰されるか締め出されるか、とにかくよい結果は生まない。
(「地の塩」「捨石」でいいというなら別かもしれないが。しかしその場合でも「捨石になってもかまわない」というであればともかく、捨石になることそれ自体を自己目的化するのは変だろう。「殉教」の自己目的化はやっぱりおかしいのであって、「信仰を貫いて生きた結果不運にして倒れた」でなければ。)
 ではかつての非合法時代の共産主義者のように秘密裏に潜伏して陰謀・破壊活動にいそしめということでしょうか。いやいやそんなはずはない。それは(非現実的ということはおいといて)やっぱり目的が仮に正しくとも手段に問題があるし。
 「左翼少数派にこそ狡猾さが必要だ」と言ってしまえば簡単ですが具体的にはどうしたらよいのか。正しくかつ賢くあるためにはどうしたらよいのか。「堂々として公明正大であること」と「声高に指摘すること」とは違うといえば違うわけだが具体的にはどう違うのか、違うものとして組み上げていけるのか。


 たとえば近年のリベラル左派の憲法学者の少なからずは結構非民主的といいますか、語弊はありますが「民主主義よりは立憲主義」といいますか、民主主義の暴走から人権を守る立憲主義(人民投票より議会、議会より裁判所?)に傾きつつあるように思うんですが。それもまたある種の狡猾さと言いますか、左翼少数派の人たちとその主張を「まあまあこういう人たちが世の中にいてもいいじゃないですか」という形で守ろうという戦略かと。
 しかし毛利『民主政の規範理論』をみると、アメリカではそのような司法審査を重視するリベラル戦略に保守派は既に追いついており、それが州レベルでのイニシャティブ(直接投票による立法)の爆発として現われている、と。そして一部のラディカルもまた司法審査中心主義に懐疑的になり、「人民投票」と騒ぎ始めているとか。


 というような話とこれまでの「リフレ派と左翼」をめぐる中年しゃべり場との関係について1000字以内で(以下略)