哲学とは

 趣味の哲学好きが、ただ単に哲学書を自分勝手に読んだり、妄想をひねくったりしているのに飽き足らなくなり、その得手勝手な思いを垂れ流しているのをみると、もちろん「痛い」と思わざるを得ない。そして「その程度の思いつきは当の昔に無名の凡庸なしかしプロの哲学者が既にきちんと研究してるんだ、歴史をなめるなゴラァ」と怒りたくなるのは、きちんと勉強している玄人としては当然である。まして最近そういう厨房臭い奴が、一応正規のアカデミーの界隈にもうろつきだしてるとしたらなおさらだ。(自戒自戒。)
 しかしもちろん自分勝手に読んだり、妄想したりということが悪いわけではない。自分ひとりの楽しみとしては、まったく問題ないし、「アカデミック・スタンダードとは関係ないところで趣味としてやってます」というのであれば、たとえひとりではなく、仲間と一緒にやるのであってもやっぱり問題ない。

 そして哲学の本来の意義の少なくともひとつは、そういうくだらない楽しみそれ自体にあるのであって、哲学の歴史が蓄積してきた業績(別にそれをめでるというのでもなくただ義務的に)の在庫管理をするところになどない。もちろん在庫管理をしてくれる人がいるからこそ、そういうくだらない楽しみにマニアはふけることができるのであって、マニアはその意味で在庫管理をしてくれるプロへの感謝の念を忘れてはならない。しかし逆に言えば、在庫管理人としてのプロの哲学者の仕事は(それが職業の名に値するのであれば)社会的に見ればむしろそういう哲学好きの趣味人への奉仕にあるのだということを忘れてはならない。だから在庫管理人たるプロの哲学者は、自分自身でも、研究史の重みがどうしたとか気にしないレベルでのくだらない妄想の楽しみに浸れるマニアというか趣味人であったほうがよい。

 そして哲学のいまひとつの使命は、わけのわからない問題領域に率先して突っ込んでいって派手に討ち死にし、もって実証科学の露払い、鉄砲玉の役目を果たすところにあり、その意味での哲学は、つねに負けつづける運命にある。それを空しいと思わずに受け入れられる、ある種開き直ったバカでないと、やはり哲学者としての適格性に欠けると思われる。つまり事後的に役に立つ妄想を生むためには、まったく役に立たない妄想の屍の山を累々と積み上げることが必要となるのであり、くだらない妄想それ自体を楽しめない者には、このように屍を積む仕事はつらすぎるだろう。

 哲学固有の伝統、その蓄積それ自体を守ることにも、それ自体でもってひょっとしたらとても素晴らしい意義があるのかもしれない(古典のテクストを読む快楽に浸るってのはなし、既にそれは素人さんにもできることとして言及済み)が、今のところぼくにはそれがわからないので、ご存知の方がおられたらどなたかご教示ください。