ご期待にお応えして大人げなくいきます。

http://d.hatena.ne.jp/d-araya/20050404#p1
 お断りしておくとこれは当方としては対等な「対話」ではなく「叱責」のつもりであることをお断りしておきたい。
 別に私は「批判するな」「畑違いのことに口を出すな」と言いたいのではない。しかし批判、ことに専門外の問題への批判的な容喙は相当に危険なことである。それゆえ批判する相手に対して失礼のないように、また第三者のギャラリーをミスリードしないように、そして何より自分が恥をかかないように、細心の注意を払う必要がある。この点荒谷氏はまったく失格、不合格である。氏は拙著『経済学という教養』を読まれたらしいが、残念なことに私が一番言いたかったことは伝わらなかったようだ。しかしこの点については、たとえば仲俣暁生氏のように(http://d.hatena.ne.jp/solar/20040115#1074178586)、十分に理解してくださっている方を複数お見掛けしているので、無理解の基本的な責任は荒谷氏の方にあると私は判断する。
 「ジャーナリスティックに現場の社会学やっている人は、データいじくってオピニオンかざして、いい商売だなぁとしか思えませんでした。別にいっていることに反対っていうのじゃないのですけれど。。。」(http://d.hatena.ne.jp/d-araya/comment?date=20050404#c)とは言うまでもなく、著しく礼を失した不穏当な発言である。こういう発言は学者によるものであろうがなかろうが、責められなければならないが、荒谷氏は畑違いとはいえ仮にも学者であり、仮に原稿料・印税をもらっていようがいまいが、人様に買っていただく商品としての本に寄稿している以上既にプロのモノカキの少なくともその手前にいる存在である。そういう人が畑違いとはいえプロの学者、モノカキに対してこういう難癖をつける以上は、覚悟というものがいる。仮にプロの、第一線の教育・労働社会学者である本田が本気になって反論してきた時に、きちんとうけて立つ覚悟が果たしてあって言っているのか? 
 一体「データいじくって」などと簡単に言うが、それが具体的にどういうことなのか、わかってものを言っているのか。いやわかっていなくともよい。テキストをいじくり、考え込むのが仕事の倫理学者が心から、身体に染み込むレベルでわかることなど期待してはいない。しかし自分の専門から打って出てよそ様に文句をつけようなどと威勢良く構えた以上、せめて頭ではわかっているべきだ。わからずとも、せめて自分にはわかっていないという程度のことはわかっていなければ話にならない。
 たとえばこういう批判ならわからないでもない――本田は東大の教育社会学の院を経て労働省(現厚生労働省)所轄のシンクタンク日本労働研究機構(現労働政策研究・研修機構)で研究員を務め、その後東大に戻っている。つまり単なるヒラの一研究者というよりは、むしろ政策インサイダー――とは言わないまでもそれにかなり近い存在であり、彼女たちの研究グループが集めたデータはある意味で特権的なデータ、役所などへの特別なコネクションなしには手に入らないようなものである。そんな特権的なデータを振りかざした研究に対しては、原データに直接当たって追試することもできないじゃないか等々……。(実際に本田の研究がこのようなものだというつもりはない。昨今日本のデータベース環境もかなりましになってきていて、データを共有して二次分析を容易にする試みが蓄積されてきている。)
 しかし「データいじくってオピニオンかざして、いい商売だなぁ」という「感嘆」は、こういう趣旨ではあるまい。では一体荒谷氏は何を言いたいのか? 何に文句をつけたいのか? 原則的には、今までの教育政策論を支配していた「データなしの(ドグマのみの)オピニオン」より「データいじくってのオピニオン」の方がましに決まっているではないか。それとも「ろくに考えもせずにお手軽にデータ並べただけで何かいえるなんて、お気楽だなあ」という意味か? バカな。
 小学生の自由研究じゃあるまいし、本田のような一線の実証研究者が使う「データ」というのは、もとより既存のデータベースにまとめられたものではなく(もちろん既存のデータの二次分析も十分に意味はあるのだが)、またそこらに転がっているのをただ単に拾ってきたわけではなく、手間暇かけて拾うための道具を作り、それでえっちらおっちら拾い集めた末に、拾ったゴミの山を一所懸命整理した結果である。こぎれいな数理統計的分析にかけることが可能になる前のデータセットを作成すること自体が、一大労働だ。
(なおhttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1027981162/501-502などはある意味その通りで、私には有能な実証研究者・歴史家へのコンプレックスがあることは否定しない。)

 なお、ついでに言うならば、私自身は本田や、あるいは玄田有史の「ニート」論に対してはひょっとしたら荒谷氏よりも批判的である。内藤朝雄ほどはっきり言い切るのもきついとは思うが、どちらかというとそっちよりだ。若年失業者問題についても、失業者問題全般と同様に、供給サイドと需要サイドの双方から考える必要がある。昨今の「ニート」論もそうだが、若年失業が取り立てて問題となる場合には、それは通常「構造的失業」、つまり需要はあるのにミスマッチで仕事にありつけない状況、として捉えられ、それゆえミスマッチ解消のために職業紹介事業のイノベーションだの、あるいは雇用動向のいい業種・職種に適応させるための職業訓練だのが対策として立てられる。「対人関係スキル云々」という議論も、この視角からすればその一環に過ぎない。
 しかし言うまでもなく、失業問題は需要サイド、マクロ経済的視角からも考察されねばならない。果たして今日の若年失業は主として「構造的失業」なのであろうか、それともむしろケインズ的な「需要不足失業」によるものなのだろうか。石油ショック以降のスタグフレーション期の、ことに西欧諸国における若年失業の大量発生については、前者が当てはまる度合が高いかもしれないが、バブル崩壊以降の長期デフレ下の日本における若年失業は、どっちかというと後者の考え方で説明し、対応した方がよいのではないか。つまりマクロ的な景気が改善すれば、若年失業者のかなりの部分は何とかもう少し安定した職にありつけ、それでも残る部分については供給サイド的な対策、具体的に職業訓練だのなんだのをすればよい、ということではなかろうか。
 私とて「ニートはほっとけ」とは言いたくない。しかしながら内藤が言うように、ニートにご親切にあれこれ手を出し口を出すことは、反面非常に恐ろしいことでもある。その危険を避け、かつニートを救済したいというなら、やはり全般的な景気をよくして、間接的にニートを就労しやすくするのが一番ではなかろうか。仮に供給サイド的なニート対策(学力・職業能力・対人能力向上によるエンプロイヤビリティー確保)がうまくいったとしても、景気が悪くてマクロ的な労働需要が増えないままだったら、結局雇用の世代対立が起きるだけではないだろうか。

 またついでに余計なことを言うと、産業・経済社会学には需要サイド、マクロ経済を扱う枠組みってそもそもないんだよね。この問題に気づいている人って一体どれくらいいるのやら。