『消え去る立法者』合評会(9月9日・慶応義塾大学三田キャンパス)を終えて(続)

 もう少し「回顧的倒錯」の話をしよう。
 遡るならばニーチェということになるのだろうけれど、フーコーの受容とともに我々は「系譜学」という方法になじんだ。永井均の言い回しを借りればそれは「現在の自己を成り立たせていると現在信じられてはいないが、実はそうである過去」「思い出として現存することを拒否された過去」についての言説であり、とりあえずは「現在の自己を成り立たせていると現在信じられている過去」「「思い出」という形をとって現存しているもの」についての言説としての解釈学と対比される。王寺が読むモンテスキュー、ルソーが批判する社会契約説は、まさにこの解釈学としてはたらきながら、現在を過去に投影してありもしない偽の起源をでっちあげる――そのようにして現在を正統化しようとする――「回顧的倒錯」である。
 ただ王寺によればそこでモンテスキュー、ルソーはそうした起源の捏造によるその結果としての現在の正統化、を批判するために、系譜学的に「現在の自己を成り立たせていると現在信じられている過去」を発掘して現在を異化するわけではない。社会契約論がやろうとしたことは、ただ単に因果的な歴史物語を提示するだけではなく、それは社会秩序を樹立しようという意志に導かれたものである、という目的論的図式をそこに重ね合わせるものであった。モンテスキューもルソーもともにこの因果的説明と目的論的正統化の癒着を拒絶し、両者を切り離す。その上でまずは、人間の意志や希望など裏切る形で展開する、歴史の因果的展開のどうしようもなさを冷徹に認識するところから始める。そしてモンテスキューの立法論は、いかなる法も政策も、この客観的な因果メカニズムを無視してはむなしいだけのものであり、むしろその重さを足場として社会秩序は形成されるのだ、とする。それに対してルソーは、この因果秩序の更に根底に潜む人間的自然に反しないような社会契約であれば支持するに値する、とし、その実現可能性について壮大な思弁を展開する。
 どういうことかといえば、目的論的正統化の図式を温存させたままでは、それと因果的説明をきちんと区別しないままでは、系譜学は別の起源の提示によって別の目的論的正統化の言説を語るだけに終わってしまう、ということだ。(実は現代の「分析的ニーチェ研究」におけるニーチェも、このような因果性の水準でものを考える自然主義者として描かれるという。)
 そうすると、因果連関と、個人によるものであれ集団の社会契約によるものであれ、自由意志に基づく意図的、目的的行為とは全く別の水準に属するものとして分離されてしまう。モンテスキューの立法論も、ルソーのそれも、そのような水準で捉えられている。だからモンテスキューのそれは乱暴に言えば「保守主義」的なものにとどまるのであり、他方でルソーの立法者は、到達点の『社会契約論』においては、アテナイのソロンのように、あるいはのちの人類学が収集する神話伝承の中に頻々と登場する「外来王」のように、神のごとき英知を持って優れた法を人民に与えながら、その法を人民に強制する権限を持たない。『社会契約論』の世界では適切な手続を通じて人民が到達した合意は定義上正しいものでしかありえない。しかしそのような合意の結果として立てられた法が、冷徹な自然の因果連関によって許容されるものかどうかなどわからない。そのような合理的な法は神のごとき英知を持った誰かが外側から押し付けるしかないが、それが本当に押し付けられたら――強制されたら、それは正しいものとはなりえない。
 スコットランド啓蒙とフランス重農主義からスミスを介して19世紀経済学へと流れ込んだのは、モンテスキューのそれにむしろ近い、幸運にも人間にとって受容可能な因果連関が世界を支配しており、立法はそこをファインチューニングすればよい、というヴィジョンであったのに対して、ルソーから社会主義者たちを介してマルクスへと流れ込んだのは、その暴力的な因果連関の逃れがたさを理解した上で、それでも世界を不平等へと引き裂くその力にいかにあらがうか、という課題であった、とまずは言えよう。ただそこで不幸があったとすれば、その課題はマルクスにおいて――少なくともその継承者たちにおいて、少なくともルソーまではそうであったように政治の課題としてではなく、階級闘争という戦争によって達成されるべき課題とされてしまった、あるいは、まさに因果連関そのものとして(歴史の鉄の法則性として)達成されるべきものとされてしまったことである。

 

 

『消え去る立法者』合評会(9月9日・慶応義塾大学三田キャンパス)を終えて

 王寺賢太『消え去る立法者』はディドロ研究者として世界の最前線を担う著者がディドロについて論じるための前振りとしてモンテスキュー、ルソーに遡ったもので、同じ主題を継承してディドロを論じる続篇が予告はされているものの、その概略は終章に提示されている。
 また同時にこの本は柄谷行人の薫陶を受けた季節外れのアルチュセール主義者の元左翼青年の初の単著であり、そう考えるとアルチュセールの処女作たるモンテスキュー論と、ルソー、マルクスについての講演を収めた日本オリジナルの一冊『政治と歴史』の反復ともいえる。すなわち王寺もまたアルチュセール同様にモンテスキューの功績を「科学の対象としての歴史」の発見者、近代自然法学における自然状態とそこでの社会契約というアイディアを「回顧的錯覚」と批判しつつ、そうした正当化の操作を受け付けずまた必要ともしない水準の(のちのデュルケーム的に言えば)社会的事実を見出したことに求める。またそうした社会契約への「回顧的錯覚」との批判をモンテスキューと共有しつつ、あくまでもこの社会的事実の水準を踏まえた統治を論じる秩序主義者モンテスキューを拒否して、つまり社会的事実の多様性と歴史的ダイナミズムをただ所与として受け入れたモンテスキューとは異なり、そうしたダイナミズムを生み出す根源、いわば真の「自然状態」に降り立ってそこから社会契約を論じようとした存在としてルソーを読み解く姿勢も、王寺はアルチュセールから継承している。
 では王寺にはオリジナリティはないのか、その独自性はここ半世紀の間に向上した歴史学的・文献学的水準を踏まえてアルチュセールによる読みをヴァージョンアップしたところにしかないのか、と言えばもちろんそんなことはない。アルチュセールは「モンテスキューは新大陸を発見しながら引き返した」とし、その新大陸を真に開拓したのは革命家マルクスである、とする。日本語版アンソロジー『政治と歴史』の構成はまさにそうなっている。歴史の新大陸を発見しつつ引き返したモンテスキュー、その岩盤を測定したルソー、実際に上陸して新たな植民地を作ったマルクス、という三題噺だ。しかし王寺の場合ここでオチをつけるのはマルクスではなくディドロなのである。
 何十年もまじめに付き合った挙句ついに「哲学者としてはつまらん」「救えるとしたらフィクション」とディドロについてこぼす王寺だが、思想家、書き手としてはともかく、王寺がその一端を示唆するディドロのおっちょこちょいな活躍ぶりは、天才であったにもかかわらず性格に難がありまくりで書物以外での影響を世にまともに与えられなかったろうルソーとはややことなる相貌を帯びる。終章で王寺が紹介するのは、南米パラグアイでのイエズス会による先住民の「文明化」プロジェクトであり、また続篇での主題化が展望されるのは、エカチェリーナのロシアへのコンサルティングである。一方で暴力によらず、あくまで自由意志と自発性を尊重しての、先住民の草の根の自立への迂遠な準備としてイエズス会布教区を褒め殺し、他方で啓蒙専制君主の剛腕に期待するディドロの姿は、当然に二十世紀の第三世界革命論者を予告するようなものではなく、むしろその夢の破綻、世界革命の展望も、従属理論的な自力更生の夢も破れた後の、一方で当事者主体、貧困者・先住民主体の「参加型開発」論者を、他方で世銀など国際援助機関で跳梁するテクノクラートを思わせるものである。ここに底意地の悪いアイロニーを読み取らねばならない。

 

 

 

 

木庭顕「10兆円ファンド」(法律時報95巻6号)へのコメントとリプライ

 

2023年5月30日(火) 21:56 稲葉振一郎

木庭先生

ざっと拝読しましたが、やや気になるところがございます。
資本主義の本義は資産の商品化、市場化というところにあり、なおかつそれが過度の投機化によって消耗されることなく守られ、資産のゴーイング・コンサーン・バリューが守られるというところにあると思われます。そのため資産は丸ごと売買されるのではなくlocatio conductioを経由する必要があり、占有が保護されねばならない。
ただ近代資本主義においては同時に、たえざる技術革新が求められるため、守られるべきゴーイング・コンサーン・バリューがその内実においては柔軟に変転する――にもかかわらず占有自体のアイデンティティが保証される――という離れ業が必要になるかと思います。占有の安定と市場における競争のバランスを保つことの困難が資本主義の困難であり、ここに失敗すると市民社会が荒廃します。
かつての「ジャパンアズナンバーワン」時代の日本企業に対する高評価は「長期雇用やメインバンクシステム、更に旧通産省の下での業界秩序の維持による安定が、そのような占有を安定化させつつ、その安心感ゆえの革新へのコミットを可能にした」とでもいうべきものでしたが、日本の生産現場の停滞が70年代には兆していたと判断される先生がそのような評価を100%共有するとは思いません。ただ一方で先生はやはり、55年体制下の日本がデファクトに擬似的な利益集団リベラリズムを実現していた、という判断をこの手の議論と共有されているように思います。その限りにおいて先生の議論は、日本型企業社会がかつては擬似市民社会的安定を提供していたが、バブル崩壊以降それが解体した、という議論のバリエーションであると思います。ただそうしますと、そのような崩壊の中から再び市民社会を回復するためには、無からの創造とはやはり行きませんので、過去の遺産を利用するしかないですが、きちんと考えないとそこはやはり古い日本型企業社会の再生、とは言わずともそのリサイクル、ということになってしまうのではないでしょうか。
現状、先生の言葉では2013年体制においても、なお日本経済は景気の回復にもかかわらず十分な再生を遂げていない、という主張は、金融緩和が積極的な実物投資を呼ばず、賃金上昇を帰結しないところからもある程度の説得力を持つかもしれませんが、ではどうすればよいのか、についてはなかなか良い知恵が出ないというのが正直なところではないでしょうか。もとよりそれは不可能だとしても、仮にかつての古典的な日本型企業――「日本型雇用慣行」と「メインバンクシステム」のセット――が再生したところで、新たな時代に向けての技術革新の担い手になるなどとは、先生も期待されてはいないでしょう。ここはやはり古典的な議論ですが、そのようなやり方は産業化初期局面の追いつき型発展においてのみ限定的に有効、と考えた方が安全でしょう。
もちろんいたずらに規制緩和を呼号するだけでは、やらずぶったくりのレントシーキングが活性化されるだけで、革新を誘発するような競争は活性化せず、市民社会としての市場は育たないでしょうが、その際に何を具体的な基盤として私たちは見直すべきでしょうか。日本型企業社会論が想定するような、大企業中心のピラミッドというわけではないでしょう。むしろここで重要なのは、そうした下請ピラミッドと必ずしも矛盾対立するわけではないですが、中小零細企業主体のいわゆる地域産業集積ではないかとも思いますが、まだ考えがまとまっておりません。

 


2023年5月31日(水) 8:56 Akira Koba

稲葉様

保存したいくらいよい質問を頂きました。

占有には様々な作用がありますが、
確かに現状をすぐには壊させない作用も重要です。
しかし、すぐには壊させないだけで、
権原思考と異なり、じっくり議論した末壊すことになる
ことは妨げません。
次に、現状に対して選択的に働きます。
良い現状は保護しますが、悪い現状は解体します。
良い悪いの基準は、もっぱら、より個別的で個人的な方を勝たせる、
というものです。
したがって、集団組織解体的に働きます。

だからこそ、私は至る所で利益集団多元主義攻撃を繰り返しているわけです。
個人と人権をおろそかにしている、と。
戦後日本のそれは、しかも、不完全な物で、
不透明な集団による多元主義でした。
したがって、おっしゃるような終身雇用等のメリットはあったにしても、
経済の観点からも、行き詰まりは目に見えていました。

私は、「改革」も、そうした欠点を修正するのでなく、
もっと過激にするものであった、と捉えています。
つまり、55年体制か改革かというのは偽りの選択肢で、
ここは完全に連続的です。

資本主義が資産保全と技術革新の両立を目指すというのは、
ある意味そのとおりですが、
私が言い続けているのは、資産に占有概念を応用するときのリスクです。
暫定的にのみ占有を成り立たせる、そして悪い資産(親子会社関係のジャングル)
を解体する、というのでなければならないが、
どうしても資産占有を近代のように公然と認めると、
組織保存的になる。
Williamsonは組織規模を取引費用から算出できるとしましたが、
もちろんなかなか良い線を行っていた。
しかし致命的なことに、組織自体をアプリオリに警戒する視点を持っていない。
locatio conductioは、組織形成的でなく、組織内を完全にオープンにする、
市場的にする、ための契約類型です。
しかし長期契約論に転換されてしまっている。
他方で、占有を効かせないから、
組織内個人を防御しない。研究者の雇い止め問題等ですね。

占有の選別的作用は、たくさん書いているのですが、
なかなか理解されません。
Verginia伝承自体(三部作のIII)か「誰のために」の「ルデンス」かを
参照頂きたく思います。イメージを掴むためにですね。

占有自体についてはいつも受ける質問なのですが、
流石に、日本型利益集団多元主義の経済問題と関連付ける質問は、
貴重で、
稲葉さんに送ってみてよかったと思いました。
今後も鋭い指摘を期待します。

木庭

 


追伸

書き忘れました。
日本型経営ないし雇用ないし取引慣行礼賛は、
おっしゃるとおり、戦後期の礼賛ですが、
1980年代、「改革」期にピークを迎えた、
ということも忘れてはなりません。
捻れた共犯関係です。

 

 

『水星の魔女』雑感

 もちろん『水星の魔女』は意匠としての百合を利用しただけであってクィアにコミットしようとしたわけではない。また百合も主題というよりは本来の主題の副産物として導き出されたものではなかろうか。本来の主題が何かといえば、訴求力の強いテレビシリーズとしては初の女性主人公のガンダム、というところである。ただそこで、それでは主人公の傍らに配するパートナーをどうしようか、という問題が浮上した。そこでパートナーを男性にしてしまう、という選択肢ももちろんありえたのだが、女性にしてしまった。その結果が百合というフォーマットの採用である。そのように考えるならば、女性を主人公、エースパイロットにするという点では性別役割批判として革新的だが、サポート、バックアップ担当のパートナーもまた女性にしてしまったという点では、むしろ不十分だった。こういう意地悪な見立てもできる。海外クィア勢からの率直な支持に比較したとき、国内クィアからの反応がいまひとつだったとすれば、それはながらくガンダム、そしてロボットアニメというジャンル、フォーマットに付き合ってきた日本人の経験が反映していたのだろう。
 思い返せばファーストガンダムというのは、その点からもなかなか面白い作品だった。もちろんそこではエースもトップも男性であり、女性はあくまでもサブ的な地位に押し込められる家父長制的構造が貫徹しているのだが、それをずらしたりおちょくったり解体するような運動も随所に仕掛けられている。とりわけ重要なことは、主人公に明確なパートナーが配されない、ということだ。恋愛の主題は提示されはするが、悲恋に終わる。この点では『水星の魔女』を含め、以降の作品の多くはむしろ後退しているとさえいえるだろう。
 もうひとつ、それまでのロボットアニメの系譜から見たとき、ファーストガンダムでは父と子という主題が意識的に打ち捨てられていることも重要だ。『マジンガーZ』以来、父の遺産、あるいは家産としてのロボットの主人公による継承、という意匠は多々用いられてきたわけであり、ファーストガンダムにおいてもそれは踏襲されてはいるのだが、そこでは父は早々に退場するし、ガンダム本体以外にはその遺志や遺産というものも残らない。主人公の親からの自立という主題は、親をあっさりと捨てるという形でなされる、あるいは上司や敵の方にこそ正面から立ち向かい克服すべき父性というものが体現されている。
 ファーストガンダム以降、ガンダムその他のリアルロボットアニメにおいては、もちろん揺り戻しもありつつも、こうした主題系が知ってか知らずか継承されており、『水星の魔女』もその例に漏れない。おそらくこれは非常に意識的になされていると思われるが、そこでは家父長制批判が「ただ家父長を断罪すればよいというわけではない」という認識とともになされている。実際問題として、ただ家父長を子が打倒するだけなら、その子が新しい家(父)長におさまり、また同じことを繰り返すだけである。『水星の魔女』の主人公たちは(もちろん「自分たちは次世代を作らない」という形をとらずに?)、そこを何としても避けようとしている。

 暫定的な結論として言えば、『水星の魔女』はクィアアニメでもなければフェミニズムアニメでもない、さりとてそれらに敵対的というわけでもない。ただ家父長制批判としては非常にデリケートだがいい線いってるのではないかと思う。

 

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