「公共政策論」講義メモ

 量産型天才を羨んでも仕方ないのでとりあえずしこしこ。まあデイヴィドソンが開花したって50過ぎだし。
 実際のところ、これまで大して勉強してきたと思えないし、まだまだ勉強したいのに、新しく勉強する暇がなくて、むしろこれまで蓄積したものを整理し秩序付けてアウトブットするだけで日が暮れますですよ。
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「公共政策public policy」というのはちょっと奇妙な言葉遣いに聞こえる。何となれば、「政策」とは国家ないしそれに類する(地方公共団体、国際機関、NGO等)の公的機関、公共の利益を目標とする機構を主体とした営みであるのだから、およそすべての政策は「公共政策」だということになりはしまいか? 
 公的機関ではない民間の主体、とりわけ営利企業の営みにおいては「経営」「管理management」といった言葉がよく用いられる。政府の統治行為、行政が「経済政策」「社会政策」「教育政策」等々といった風に言い表されるのに対して、企業の経営活動の諸領域は「財務管理」「生産管理」「人事労務管理」といった具合に呼ばれる。あるいは「戦略strategy」といった言葉も用いられる。
 しかしながら私的営利企業の営みにおいても、例外的に(比較的頻度は低いにしても)「政策」という言葉で言い表される領域がある。人事労務管理の領域である。「労務政策」といった言葉は、普通は、政府の労働政策の一環としての、企業の人事労務管理に対する公的な統制を意味するものとしては用いられず、あくまでも企業が主体である企業の人事労務管理における営みを指す言葉である。
 これは何を意味しているのだろうか? 我々が今日「政策」という言葉を用いる際には、主にその主体に着目して、公的な機関を主体とする営みを「政策」と呼ぶことが多いわけではあるが、主体ではなく客体、対象、ターゲットの態様に着目して「政策」とはどのような営みであるのか、を考えてみることができるのではないだろうか? 


 ところで政治学的な視角を採用するならば、「政策」というのは広義の「政治」の下位部門であり、狭義の「政治」(公共的決定)が「入力」であるとすると「政策」は出力だということになる。さて(それがなんであれ)「政治システム」の「出力」される環境、その作用する対象を「社会」と呼ぶか「人民」と呼ぶかはともかく、「民主政」のもとではこの「政治」(「政策」)の客体、対象が同時にまた「政治」(公共的決定)の主体でもあるという円環が出来上がっていることになる。少なくとも建前としては。そしてこの考え方は「政治」を「自治」「自主管理」の延長線上におくものである。
 しかしながら伝統的な「政治」についての考え方は、西洋世界における古典的な「君主政・貴族政・民主政」の三分類を待つまでもなく、「政治」の主体と客体(このような言い方が至極乱暴であることは認めるがとりあえず)は通常互いに別箇であると考えることを通例としてきた。そもそも、そうなればこそ「政治」と「政策」を分けて考えることに意味があるのである。