たとえばアレントの言う意味での「政治」とは何か

について、アレントを直接には一顧だにせず、古典期ギリシア・ローマの一次資料に即して行われている木庭顕の仕事を参考にして考えてみるとどうなるか。


 木庭によれば古典期ギリシアのポリス社会、そこでのデモクラシーと、共和政ローマは意外なほど近しい。共和政期のローマは明確にデモクラシーに到達していたのであるし、そこでの貴族と民衆との対立、あるいは元老院と民会といった階層構造の対応物は、しばしば「直接民主政」とくくられてしまうギリシアのポリスにも存在する(評議会と民会)。
 そしてローマにおける「法」は、いわゆる(後の)公法(に対応するもの)のみならず、後世のいわゆる「ローマ法」の核心をなすところのいわゆる「私法」「市民法」まで含めて、あくまで、政治システムの一環、古典期ギリシア・ローマ的な意味での「政治」の延長線上にある。


 アレントらのいうところの公と私の厳然たる区別、そしてあくまで公的な営為として古典的な意味での「政治」をとらえるという立場は木庭もまた同様に採るものである。しかし結局「私」とはなんであるのか。木庭は「私」の領分に対して「領域」なる語を与え、「公」の領分を「都市」と呼ぶのであるが、果たしてこの「領域」とは何であり、そこにおける人々の営為とは何であるのか。
 この私的な営みを今日の家族や家政を念頭において考えるとミスリーディングなのであり、むしろ「部族」「氏族」、日本の時代劇風に言えば「お家(いえ)」「一門」とか「一族郎党」とでもいた方がまだしもである。生存経済的な意味でも武装能力という意味での自律的な勢力が、私的な領域に根を張って自存しており、そうした諸勢力の単なる割拠を超えた協働として公的な「政治」を考えなければならない。
 そしてローマにおける「法」が――「公法」のみならず「市民法」、刑事法と民事法がそのような意味での「政治」の延長であるとはどのようなことか? 
 まず刑事司法、刑事裁判にあたるものが考えられる。これは、政治的な主体――勢力そのものないしその主人の存在自体への危害を訴追するものである。それに対して、勢力の存在そのものを脅かすとは言わないまでも、勢力の支配下の資源――人を含む――を奪ったり損なったりするような営為もまた、放置されないとすれば、そうした営為に対する訴追がなされる。これは今日的な意味での民事裁判の原点であるといえる。(ローマでは長らく、窃盗は刑事的に訴追される犯罪ではなかった。)
 更にローマにおいては、こうした裁判によって保護される対象が、十全に独立した政治的な主体だけに限られず、拡大していったらしい。たとえば、ある有力な勢力Aの庇護下にある小物aが、勢力Bの庇護下にある小物bと、土地xがどちらに帰属するのかをめぐって紛争になったとする。aもbも自分の利益のために後ろ盾たるAたBの力に頼りたいところであるが、これを際限なく認めると小物同士の紛争が大勢力同士の激突につながりかねず、政治システム自体の安定が損なわれる。それを回避するためにはむしろaやbといった小物にも、それなりの独立した地位、身分を与えた方がよい。AやBも、それ自体では一人前の主体ではない小物aやbを丸抱えする存在ではなく、AやBの縁者、保証人という名の他人として位置づけなおした方がまだしもである。
 さてそれではローマにおいて、こうした小物たちの独立の根拠とされていったのは何であるのか? 木庭の見るところではそれは「占有Possessio」である。占有のモデル、パラダイムは土地や子供である。生存を支えるための何らかの資源を占有する(この占有と所有・財産Dominiumとの違いが曲者なのであるが、とりあえずそれは措く)ことをもって、独立の根拠となすのである。こうした独立した市民としての地位付与の対象は、平民のみならず、帝国主義的に拡大していくローマにとっては植民地、被征服民までも当然含まれる(いわゆる「投票権なしの市民権」)。
 かくして、私的に独立した市民たち同士の、政治システム総体を脅かさない範囲での、あたかもそれに関与することなく相対的に独立した営みの領分が――まさに「領域」を中心として確保される。そこにおいて人々は、自分の私的な「領域」において私生活を営むだけではなく、他の自立した市民と取引したり、紛争を起こしたりもする。それはまさに「市民社会」であり、後のいわゆる「近代」のそれと本質的には変わらないし、他の文明圏にも共通してみられる私的所有と市場経済の仕組みと構造的に同型に見える。


 しかし木庭によれば、そこには一見些細だが決定的な違いがあるのだという。ここがしかし、きわめてわかりにくい。
 古典期ギリシア、たとえばまさにアテナイにおけるソロンの改革にせよ、あるいは共和政ローマにせよ、債務奴隷を生むところの債務問題は重大な政治紛争の主題であり、ある種革命といってよいほどの体制変化につながるものであった。そしてポリス社会にせよ共和政ローマにせよ、債務奴隷を否定する方向での変革を遂げていくのであるが、これには当然に無理というか緊張が伴う。
 借り手の人身そのものを抵当、担保とする、債務奴隷を認める形での信用秩序というのは、それを認めない場合よりも一見効率的である。普通にこれが行われているところで、無理やりに禁止するならば、禁止されない場合よりも当然、信用供給は不足してしまう。今日われわれが「金融市場の不完全性」と呼ぶものの主たる要因の一つである。
 しかしながらこれを禁止することにも、まさに政治の観点からすれば十分な合理性がある。債務奴隷を容認するということは、私的な取引の結果として、政治的な主体がその地位を失う可能性を容認する、ということである。共和政ローマの歴史にまつわる伝承には、従軍するための武装を支弁するために借財し、それを返済できずに奴隷とされた者のエピソードが報告されており、それへの怒りが重大な紛争、革命への引き金として強調されている。
 債務奴隷を容認する、そのような可能性を秘めた取引の秩序というものは、政治的主体の自由と自立にとって脅威であり、まさに古典的な意味での「政治」に敵対する。それだけではない。
 そのような取引の世界は、もちろん、独立した主体同士の取引である以上、私的な勢力内の、家の中での私的な営み、そこでの人間関係とはさしあたりは異質なものではあるように見える。私的な家の中での、家の主による女子供、奉公人、奴隷に対する支配とは異なるように見える。しかしながら、取引の結果その一方の当事者が自由人としての地位を失い、奴隷――他者の家の子となる可能性がある以上、「公」とは言い難い。
 木庭はこのような、政治との緊張関係を持たずそれに潜在的に敵対的な取引のことを「交換」と呼び、人類学的研究によって普遍的に見出されるところの、様々な伝統社会におけるものや人の取引、そしておそらくは近代世界の市場経済までも、相当程度この「交換」であると見なしているようだ。


 では共和政ローマは、この「交換」に対してどのように対抗したのか? その解答がよくわからない。というより、われわれが期待するような意味での「解答」をローマ人たちはおそらく持ってはいない。そのかわりローマ人たちはこう考えた。
 たとえば、債務者が借財をついに返せなくなったとする。ローマ人たちはそこで債務者の財産を差し押さえるが、人身までは差し押さえない。更には、差し押さえに際しても自明の自動的な手続きを設定せず、債権者たちが集まって合議して、共同で債務者の身柄の管理、債権の回収、債務整理を行っていく。もちろんこうした仕組みは近代的な破産法、債権回収法の起源ではある。重要なことはローマ人たちが、それを単なる事務手続というよりは、一種の政治と考えていたことである。
 あるいはbona fidesという言葉がある。現代の日本語、私法用語でも「信義則」として生き延びている言葉である。しかしローマ人と現代の日本人、あるいは近代私法の中に生きる者たちとでは、bona fidesに込めているニュアンスが異なるのだ。
 近代法であれば、信義に反して債務不履行に陥った者に対して、例えば担保された物件を差し押さえてそこからの回収をはかり、あるいはそれで間に合わなければ、国家権力をも召喚して、強制的に債権を回収しようとする。(それでも、実は債務をそのまま強制的に履行させることは――ことに特定の物件の譲渡だとか、サービスや労務の提供といった債務の場合にはあまりなく、それに相当する金銭での弁済で済ませることが多いということには重要な含意がありそうだ。)すなわち、信義則という心術、モラルに訴えるのではなく、私的な利害、インセンティブに訴えて債務の履行へと人を促す。
 これに対して共和政期のローマ人は、われわれには理解しがたい程度に「信義則というモラル」に賭けていたのではないだろうか。もちろん意地悪く言えば、著しく信義にもとる行いに出る者に対しては共同体からの追放を含めた厳しい制裁がなされたのであろうが、そうした制裁は近代人が考えるような、既存の機械のごとき司法システムが自動的に与える手続としてではなく、まさに政治的な決定としてイメージされていたのではないか。


 担保、質や強制執行といった露骨にオートマティックな手段を取らず、可能な限り関係者の信義、善意、誇りに則って取引を回そうとする世界。それがうまく回らず、信義を破った者を制裁する羽目に陥ったとしても、取引関係者たちが自分たちの判断で、自分たちで汗をかき、時に手を汚してそれをなす世界。そのような市民社会においてであれば、そこでの私的な取引はアレント的な意味での「政治」であるだろうし、もちろんそうした世界の枠組みの保守は、単なる「行政」ではなくまごうことなく「政治」であろう。


 付言するならば、木庭は、ポリスや共和政ローマにおける公務は基本的に「持ち出し」「寄付」「ボランティア」によっていたと強調する。そこでの財政には「国庫」の概念がない。併せて指摘するなら、ギリシアはもちろんローマもまた「法人」の概念を知らない。そこには「組合」はあっても、組合は単なる権利主体たる人同士の相互委任のネットワークであって、決してそれ自体で権利の主体たる「法人」ではない。「国家」や「法人」といった人を超越した主体は存在しないことと、「政治」が「行政」化しないこととの間には関係があると考えるべきであろう。


 そしておそらくはこのような秩序は長続きしなかった。共和政が崩壊し、帝政に移行したローマにおいて、法は「占有」とは異なる「所有」の概念に到達する。その意味をぼくはまだ十分に理解してはいないし、これからも到底理解できないのではないかとおそれる。しかし木庭の判定が正しければ、この「所有」の概念とともにローマ法は「政治」との緊張関係を失い、「交換」の論理で「政治」を汚染し、「公」を解体する方向ではたらくようになる。


ローマ法案内―現代の法律家のために

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